金嶺山龍源寺(曹洞宗)
道元禅師を開祖とする福井の永平寺、横浜鶴見の総持寺を両大本山とする曹洞宗寺院である。
元和9年(1623)、由利十二頭の一人打越左近光隆、常陸国行方郡新宮より、矢島領主として移封の際、因縁のあった常陸国行方郡八代(現茨城県行方郡牛堀町)長国寺八世即殿分廣和尚の弟子、白峰廣椿和尚を伴い来たり、創建された。但し開山については、本師を開山とし自らは二世となっているが、末寺の鳥海町笹子慈恩寺、同町中直根正重寺は、白峰廣椿和尚が開山となっている。因みに矢島町山寺にあった地蔵庵は正式には白峰庵といい、廣椿和尚の隠寮であったと言われる。
寛永11年(1634)打越光久(光隆実子)死去後、後嗣定まらず、矢島領は庄内酒井家の預かり領となったが、寛永17年(1640)讃岐高松十七万三千石の領主生駒高俊公が故あって幕府の領地収公に逢い、矢島一万石に移封さ、当龍源寺を菩提所した。
開創以来明治初年に至るまで、二度の火災の記録があるが、戊辰の役の際、全堂宇焼失という戦禍を受けている。因みに、勤王側に立った矢島藩に対する庄内藩の進攻によるものである。
従って、現在の諸堂伽藍はその後の造営であるが、庭園を含めてその規模は、かつての西国大名であった生駒家の方針を基に、再建整備されたものであり、地理的条件にも恵まれ、地方寺院としての稀に見る佇まいといえるであろう。
龍源寺の特徴的な点は、旧藩時代は藩主の菩提寺の檀徒は、およそ士族に限られるというのが、大方の場合原則的な形として見受けられるが、その点に関し龍源寺は全く例外的であり、檀信徒数が比較的多いということである。これは生駒家移封当時、矢島地方は僅か五十年ほどの間に、3回の覇者交替が行われ、地元における有力者などの人脈が入り乱れ、世情極めて不安定な時代であったので、民政安定を希う生駒藩政の一環として、藩公の菩提寺の門戸を士族以外にも広く開かしめたためである。
境内は墓地を含めて約6千坪ほどあり、その中には開基打越家墓地、生駒家墓地及び郷土史に登場する人物の墓地も多く現存している。
建造物は、本堂、庫裡、開山堂、中興堂、開基堂、生駒家霊廟、隠寮、接客寮、山門、鐘桜堂、観音堂、その他を含め創建坪数は五百坪を超えているが、本堂玄関の様式は、本堂建築費の三分の一を要したと伝えられているだけあって、地方寺院にはちょっとその例を見ることが出来ないであろう。
寺宝に関しては、戊辰戦火で、その多くを焼失しているが、それでも四国高松初代生駒親正公着用の鎧一式、初代、二代、三代、四代(矢島初代)十二代藩主肖像画、生駒家寄進の調度品及び書画など相当数を蔵している。また境内より縄文時代の「鮭石」も出土している。
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