石碑10「服部平右衛門彰功碑」
石碑10「服部平右衛門彰功碑」の説明
招魂社の左手前、土手ぎわに黒っぽい石碑が立っています。
「本荘藩重臣贈従四位服部平右衛門彰功碑 正三位勲二等子爵岡部長職書」、裏面には「大正7年10月」と刻まれています。
服部平右衛門は文政4年(1821年)、桜小路野辺氏の二男として生れ、幼名を斧太郎、和七郎といいましたが、のち母方の服部性をついで平右衛門と改め、50石を給されています。江戸在番中諸国を漫遊、帰藩後は寺社奉行、郡奉行、表御用人などの要職についています。戊辰戦争のとき服部は、新政府が強引に進める会津・庄内藩征討に反対して結ばれた「奥羽越列藩同盟」を俗論として排撃し、仙台藩、南部藩など東北の雄藩に拒絶されて転々所在が定まらず、函館にわたろうと能代港に待機中の「奥羽鎮撫総督府」を本荘城に迎えいれようと計画、ひそかに腹心の守屋杢右衛門を能代に派遣するなどしました。
境を接する大藩秋田の態度がいずれとも定まらない段階で、服部が進めようとした計画はまことに危険な賭といえました。やがて秋田・亀田・本荘藩とも総督府側につき庄内藩との戦争になりました。圧倒的に優勢な庄内勢の前に、本荘藩は城を捨て(自焼・自落)、亀田藩は庄内藩に降伏、秋田城も危うくなりましたが、庄内勢は総引揚げののち降伏、結果は総督府側の勝利となりました。服部は明治3年(1870年)に急死しましたが、戊辰の功により大正4年(1915年)、大正天皇即位の礼の際に従四位を贈られました。この碑を書いた岡部長職はもと和泉国岸和田藩5万3000石の城主、政艦夫人の弟。当時、枢密顧問官を務めました。
石碑10「服部平右衛門彰功碑」の位置
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