光徳寺跡

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ページ番号1009764  更新日 2024年4月30日

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 石脇公徳館(こうとくかん)は、江戸時代には石宝山光徳寺と称した修験の寺院でした。当時は、神仏習合の時代で、光徳寺の僧侶が石脇中町の稲荷神社、三軒町の神明社、緑町の猿田彦神社、弁慶川の秋葉神社、田尻の金比羅神社などの別当を兼ね神官も務めていました。明治維新後、新政府は神道を基礎とする国民教化を図るため、別当や社僧の禁止を定めた、神仏分離令を施行します。その結果、光徳寺は北内越(きたうてつ)内黒瀬(うちくろせ)の法輪寺(ほうりんじ)などと共に廃寺となりました。明治39年(1906)に石脇区会条例が制定されて石脇財産区が誕生し、財産区から維持管理費の支援もあって旧光徳寺は「公徳館(こうとくかん)」と改称し、石脇地区の集会施設として生まれ変わります。地域の諸会合に利用される一方、明治40年には遙拝殿が増築され、新山神社の祭典や神事にも活用されることとなります。昭和30年(1955)、石脇財産区は地域住民の要望に応えて公徳館に石脇初の保育園を開園しました。同園は翌31年に本荘中学校の東側に新築移転し、石脇保育園(現在の石脇東保育園)となりました。
 現在の石脇公徳館は昭和44年に老朽化した建物を新築落成したもので、大広間・中広間・遙拝殿・応接室・調理室を備え、各種行事の会場や諸会合、祭典行事などに利用されています。敷地内には旧光徳寺時代の名残を示す神楽殿(右側)、恵比寿堂(中央)、太子堂(左側)が鎮座しています。神楽殿には石脇神楽の御頭が納められ、恵比寿堂は中町住民が中心となって崇拝しており、太子堂は長らく石脇の大工職人たちの崇敬を集めています。神楽殿の側には鳥海山の銘が刻まれた大きな石碑があり、旧光徳寺と鳥海修験との関係を窺い知ることができます。

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