斎藤寅次郎編

日本喜劇映画の初代監督

経   歴

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戦前から戦後の日本で、活動写真が華やかなりし頃、喜劇映画の神様と言われた名監督が活躍しておりました。その人の名は斎藤寅次郎(本名寅二郎)、生涯に207本の監督作品を残し、世の中に笑いをふりまき、人々に希望を与えました。

若き日の斎藤監督

品   詳   細

No.1〜10
No.11〜20
No.21〜30
No.31〜40
No.41〜50
No.51〜60
No.61〜70
No.71〜80
No.81〜90
No.91〜100
No.101〜110
No.111〜120
No.121〜130
No.131〜140
No.141〜150
No.151〜160
No.161〜170
No.171〜180
No.181〜190
No.191〜200
No.201〜207
脚本・原作編
明治38年(1905)1月30日、矢島町舘町で役場収入役の孝一郎の二男として生まれる。
 高等小学校卒業一ヶ月前上京し、親戚筋の宇津木病院書生となり、明治薬学校に入るが、通学の途中浅草で見た映画が病みつきとなり、学校を中退し、星製薬宣伝部の映写技師となる。
 2年間九州方面で映写して廻るが、写すより作る方がいいと、叔父の斎藤佳三を介して、大正11年(1922)松竹キネマに撮影助手として入社し、大正13年(1924)大久保忠素監督のもとで助監督、大正14年(1925)20歳で監督に昇進し、第1回作品「桂小五郎と幾松」を制作する。
 助監督時代の一年後輩に小津安二郎がおり、二人は酒飲みで怠け者の大久保監督の代わりに好き勝手な撮影をしていたという。間もなく短編の喜劇映画に才能を発揮し、喜劇の神様、王様、喜劇の大監督、巨匠としての名声を得る。
 昭和10年(1935)に「この子捨てざれば」が喜劇短編映画としては異例のキネマ旬報ベストテン賞を受賞する。
 昭和12年(1937)の東宝に移籍し、エノケンロッパ、エンタツ・アチャコ、金語楼といった人気コメディアンの出演する長編喜劇を手がける。
 戦後も昭和21年(1946)の「東京五人男」を制作、昭和24年(1949)には美空ひばりを「のど自慢狂時代」で映画デビューさせるなど、多くの作品を制作するが、昭和37年(1962)胆嚢を患い、新東宝の「大笑い清水港」を最後に57歳で現役を引退する。

斉藤寅次郎と車寅次郎

 引退後はこれまでの仕事のために、火責め、水責めにあいながら働いてくれた映画人の冥福を祈るため写経を行うなどし、また70歳からはマラソンに挑戦し、多くの大会に出場している。

撮影記念写真

 昭和57年(1982)5月1日肝硬変のため77歳で死去する。(法名慈福院映岳喜光居士)同日付けで勲四等瑞宝章に叙せられる。戦前戦後を通じて暗い世相の中で、笑いの福の神を大量に製造してくれた斎藤監督、しかし、残念ながら無声映画時代のフィルムはほとんど残っておりません。この資料により後世に斎藤寅次郎監督の偉業を伝えます。

寅二郎の生家

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