本荘城のあらまし「本荘の歴史」

ページ番号1003701  更新日 2023年9月27日

印刷大きな文字で印刷

本城城の歴史

慶長18年(1613年)ころ、本城満茂が本城城を築き10年間居城した後、元和8年(1622年)最上氏の改易によって退去しました。その後1年間宇都宮城主本田正純が減転封されましたが、この間に城は取り壊されました。その後、元和9年(1623年)六郷政乗が常陸府中から入部、土塁の名城といわれる本荘城が築かれ、戊辰戦争時に自焼するまで六郷家の居城となりました。

本城城時代

由利一円は由利十二頭の時代を経て慶長7年(1602年)最上氏の所領となり、最上氏の重臣楯岡豊前守満茂が赤尾津(今の松ヶ崎・亀田)に佐竹氏への備えとして入部しました。およそ10年後、佐竹氏との関係が安定した慶長18年(1613年)ころ、現在の本荘公園を中心とした子吉郷本城の地に今の町の基礎となる城下を築き、自らは城下名をとって本城姓を名乗りましたが、元和8年(1622年)最上氏の改易により退去し、その直後、本城城は幕府の命により取り壊されました。その後、由利には宇都宮城主で幕閣から失脚させられた本田正純が減転封されましたが、翌年には改易処分されました。

注:本城という地名は17世紀半ば(2代目政勝のころ)まで使われますが、このページではでは六郷氏入部から本荘とします。

本荘城時代

元和9年(1623年)本田正純にかわって本荘城の主となったのは、常陸府中の大名・六郷政乗でした。政乗は戦国時代、仙北郡六郷地方の武将でしたが、関ヶ原合戦で徳川家康方に属し、その功績が認められ常陸府中1万石の大名となり、その後幕府の命により出羽の国由利本荘2万石に転封され、本荘城を修復して居城としました。以後、六郷家は江戸時代が終わるまで11代、250年にわたりこの地を支配しました。戦国時代秋田で活動した武将たちのなかで大名として秋田に残ったのは唯一六郷氏だけでした。

本荘城

本城に入部した六郷政乗は、前年に幕府の命令で取り壊された本城城と城下町の再形成をしなければなりませんでした。六郷氏が修復した本荘城は、城郭を大幅に縮小するなど、本荘を自らの領地高に見合う城郭と城下町に改造しました。

本荘藩(六郷家)歴代藩主

  1. 政乗
  2. 政勝
  3. 政信
  4. 政晴
  5. 政長
  6. 政林(まさしげ)
  7. 政速(まさちか)
  8. 政純
  9. 政恒
  10. 政殷
  11. 政鑑(まさあきら)

本荘城下

満茂入部以前の本荘は、善応寺川の西側にふるき(古雪)湊を中心に中世以来居住していた町衆がおり、最上氏あるいは本城氏が招来したと思われる町衆により東側の城下が形成されていきました。城下は大きく侍町と町方に分かれ、侍町と町方は城の北西側の大門で区切られていました。侍町は城を取り囲むように配置され、その外側の現在の谷山小路から出戸町八幡下にかけて足軽町が配置されていて、侍町のうち特に現桜小路・尾崎町には重臣が住んでいました。また、現在の花畑町一帯と日役町・猟師町付近が寺屋敷となっており、町方は城下の西北、現在の上横町・中横町付近一帯から大町・肴町・日役町・猟師町、そして古雪町・観音町に広がっていました。

藩の成立

元和9年(1623年)本荘藩2万石が成立し、その後、寛永17年(1640年)四国の大名生駒氏が矢島に減転封されたため領地替えが行われ、本荘藩の領地が確定しました。しかし本荘藩は亀田藩との間で真木山(現在の県立大学後方一帯の山)や子吉川の領有をめぐって争いがおこり、特に真木山にかかわる真木山争論は100年余り続きました。江戸時代、大名の格式や領地の広さなどは幕府からあたえられる石高(表高)で表され、幕府はその後の開発で農地が増えても石高を変更しませんでした。しかし、本荘藩では領民と協力して新しい農地を開き、実際の石高は三万石を超えていました。

戊辰戦争と本荘藩

はじめ、奥羽列藩同盟(旧幕府軍)に加わっていた本荘藩・秋田藩・亀田藩はその後離脱し、由利地方は本格的な戦闘体制に入りました。旧幕府派の庄内軍は次第に本荘城下に迫り、本荘藩主六郷政鑑は籠城しての徹底抗戦を決意しましたが、新政府軍は秋田での決戦を決め、それを拒否したため、政鑑はやむなく城に火を放ち秋田に退避しました。本荘城下は庄内軍によって城下の大部分が焼かれてしまい、戦後藩主自らが被害の復興に取り組みました。

戊辰(ぼしん)戦争

期間:慶応4年・明治元年(1868年)~明治2年(1869年)

慶応3年(1867年)、将軍徳川慶喜の大政奉還で江戸幕府の政治が終わりましたが、翌年1月から始まった明治新政府が旧幕府軍を一掃した一連の内戦で、1868年の干支が戊辰だったため「戊辰戦争」と呼ばれています。

本荘の風土と文化

鳥海山を源とする子吉川は下流で石沢川・芋川と合流し日本海に注いでいます。その日本海は黒潮の分流である対馬海流が温暖な気候をもたらし、稲作をはじめとした豊かな植生に恵まれ、また、ロシア沿岸部からのリマン海流が合流するため豊富な魚類に恵まれるなど、自然環境、生活や文化に大きく影響を与えてきました。また、海を通じて、あるいは山を越えて人々や文化が交流し、さまざまな文化を積極的に取り入れる一方で、秋田・庄内といった南北の大藩の圧力に常にさらされながらも巧みにバランスをとり、たくましく歩んできました。

文化

永泉寺山門は、六郷政鑑の時代に永泉寺六世義門達宣の発願により建てられた楼門で、昭和43年(1968年)に秋田県有形文化財に指定されています。この山門の楼上で圧巻なのは、当時多士済々の賑わいを見せていた本荘の絵師たちを代表する、牧野雪僊・増田象江・阿部永暉・鈴木梅山の4人による8人の天女の絵で、楼上が極楽浄土であることを表しています。この天女の絵に限らず、楼上には京都の大仏師七条左京の釈迦三尊像や十六羅漢像、下層の格天井の花尽くしの絵など山門全体が美術工芸の粋を集め、本荘藩の総力をあげた文化の結晶といえます。

学問

本荘藩では、有能な人材を育てるため7代・六郷政速(ろくごうまさちか)によって藩校「修身館」が現在の市役所付近にひらかれました。教科書は四書五経などの中国の書物を使い、現在と同じで試験は厳しかったようです。藩校が開設される前は、藩士の子どもたちは「塾」という個人の教育機関で学びましたが塾は後に庶民の教育機関として大きな役割を果たしました。本荘藩では、藩きっての儒学者で修身館の学頭を務めた皆川宗海が開いた「双巴塾」が知られています。また、「寺子屋」は農民や町人の教育に大きな役割を果たしました。

暮らし

本荘城下では商人町・職人町・湊町、それぞれの町の人たちが日々の暮らしを営んでいました。

商人町

大町・肴町、そして上横町・中横町あたりになり、そめや(染屋)、かかや(加賀屋)、油やなどの看板を掲げていたようです。

職人町

桶屋町・鍛冶町・田町などで、ぬし(塗師)、とき(研屋)、たたみ(畳屋)、大工、木引などの職人がいました。

湊町

古雪町には廻船問屋があるほか、町内西端には藩の米蔵である「古雪御蔵」がありました。

商業と交通

城下には秋田・酒田を結ぶ北国街道と二筋の内陸(院内銀山、平鹿郡)に向かう通称塩の道があり、交通の要衝となっていて、人々と物資があわただしく往き来していました。また、子吉川と芋川では川舟が物資の輸送を担い、流域各地には川港があり、年貢米が運ばれていました。一方、子吉川の河口には本荘湊(古雪湊)があり、そこでは日本海を航行する廻船と交易する特権を与えられた商人(廻船問屋)が、ニシンや米、紙、塩、綿などの湊に出入りする商品を取り扱っていました。

形名武者押図絵巻

この絵巻物は、「孫子の兵法」による軍装行進の模式図で、長さ41メートル・幅34センチメートルの大作で、元禄10年(1697年)に4代藩主・政晴の命令で「画工・狩野傳竜子信明」が描いたものです。絵巻物に描かれた人物は、物見・先触・忍びの者などを先頭にして鎧武者に護られた馬上鎧武者を中心に、行軍人数総数1,013人の多数が克明に描かれた壮大な絵巻物です。

本荘組子

本荘組子は、秋田杉、神代杉、桧の柾目をよく乾燥させ、細かく切り、何万何千もの切子を組んで、多彩な紋様を表現します。横繁桟、縦繁桟と呼ばれる構造を基本に、疎、繁、または吹き寄せ木など変化に富んだ高度な伝統技術によって紋様を表現する伝統工芸です。光を通して見る組子の模様は見る角度によってさまざまな表情に変わります。その美しい光と影のバランスはまさに「日本の伝統の美」として世界に誇れる芸術であります。

神代杉(埋もれ木)

神代杉のことを、地方によっては埋もれ木、古代杉等と呼んで貴重なものとして扱われています。鳥海山の大噴火で天然秋田杉の美林がなぎ倒され、その上に火山灰や土砂が降り注いで、地中に埋もれていた杉の木が地上に出ると神代杉と呼ばれています。火山灰が堆積した地中で、永年染みこんだ色は、鳥海神代杉特有の色あいの良さを誇っています。

本荘今昔

明治22年(1889年)、旧亀田藩領の石脇村が編入されて本荘町が誕生、昭和29年(1954年)には本荘市が誕生しました。その後街は順調に発展を続け、現在では市街地が急速に拡大し、駅東や石脇地区には大型ショッピングセンターが立ち並んでいますが、一方で、城下の中心市街地では人口の減少や営業をやめる店舗が急増していて、市街地の再生が課題になっています。また、本荘では、多彩な伝統工業が育まれてきました。藩政時代から盛んな味噌と醤油の醸造や本荘米と豊かな水に恵まれた酒造り、そして本荘を代表する民芸品「ごてんまり」などがあり、先端技術を誇るハイテク産業とともに大切に受け継がれ発展しています。

本荘公園

本荘公園は城址公園で、明治4年(1871年)の廃藩置県後に旧藩士有志73名の結社である報旧社が明治新政府から払い下げを受け、明治34年(1901年)に旧藩主・六郷政鑑に贈与しました。その後、昭和10年(1935年)に政鑑の孫、政貞が仙北郡花館村(現在の大仙市)の三浦友吉氏に城址を売り渡したため、当時の町長だった齋藤弥太郎氏は、「町の中心の大事な史跡を本荘町民の元に」と私財を投じて買い取り、昭和15年(1940年)に本荘町に寄付しました。公園の二の丸にはその偉業を讃えて齋藤弥太郎翁の胸像が建てられています。

発掘調査

本荘公園では公園整備に合わせて城跡の発掘調査が行われました。お城の三の丸の北西部、現在の遊泳館のある場所からは、江戸時代中頃から終わりにかけてお城のゴミを捨てた穴(廃棄土抗)がたくさん見つかりました。また、焼物の皿や椀、箸や柄杓、木簡(文字が書かれた木札)などが出土しています。本丸では、弓櫓などの建物跡が見つかったほか、城が造られる以前の空堀や建物跡、井戸跡などが見つかり館があったことがわかりました。

弓櫓遺構概要

本丸南東端の土塁の上で、弓櫓の遺構が見つかりました。これは東西が推定13メートル、南北が4.25メートルの大きさで、深さ1.3メートルの溝の底に礎石を置いて、その上に角材がのせられた、しっかりした造りの基礎であることがわかり、土蔵のような建物であったと考えられます。江戸時代の絵図には、この場所に「弓櫓」が描かれています。弓櫓は、武具などの保管や物見に使われ、防御の要になっていたと考えられます。

本荘城模型解説

本荘城模型は、須藤直吉氏が所有していた幕末の頃に描いたと思われる本荘城の見取り図を主に参照して作成したものです。本荘城は慶長18年(1613年)ころに本城満茂が2カ年余の歳月をかけて築城したといわれており、敵を防ぐ巧妙な堀と堅固な土塁を配し、規模も現在の愛宕町から鶴舞球場を含んだ壮大なもので、最上氏の山城の中でも最大級のものと言われました。しかし、最上氏が改易になった後、元和9年(1623年)に入部した六郷氏が大幅に縮小して城を築き、戊辰戦争で城を自焼するまで本荘を治めていました。

本荘城関連年表

年月日

できごと

慶長7年(1602年)5月 由利一円が最上義光の所領となる。
慶長7年(1602年)~9年(1604年) この頃、最上氏の重臣:楯岡豊前守満茂が赤尾津(現:松ヶ崎・亀田)に入部、赤尾津姓を名乗る。
慶長18年(1613年)2月 子吉郷本城に築城を開始。
慶長18年(1613年)2月~10月 満茂、本城城に入り本城満茂と名乗る(5万5千石)。
元和8年(1622年)8月21日 家中騒動のため最上氏が改易(領地没収)され、本城氏が由利から退去(前橋酒井家に預けられ3千石)。
元和8年(1622年)10月1日 宇都宮城主:本多正純が改易され、由利に転封される(宇都宮釣天井事件)。
元和8年(1622年)10月9日 本城城の取り壊しが開始される。
元和9年(1623年)10月18日 本多正純が佐竹氏に預けられ、六郷政乗が常陸府中から本城に入部。2万石が与えられる。
寛永17年(1640年)7月26日

四国高松藩主:生駒高俊が減転封され、由利の内1万石(矢島)を与えられる。

このため、領地替えにより仁賀保町南部から金浦町、象潟町にかけての海岸部が本荘領となる。

文化元年(1804年)6月4日 象潟大地震。本荘藩領で161人の死者が出る。
慶応3年(1864年)10月14日 将軍:徳川慶喜が大政奉還。
慶応4年(1868年)1月3日 鳥羽伏見の戦いで徳川軍敗北(戊辰戦争)。
慶応4年(1868年)4月19日 本荘・秋田藩が小砂川の戦いで鶴岡藩に敗れる。
慶応4年(1868年)7月9日 本荘・秋田藩が大須郷で敗れ、翌日塩越に撤退。
慶応4年(1868年)7月13日 総督府が本荘・亀田藩に庄内鶴岡藩征伐を命じる。
慶応4年(1868年)8月6日 藩主:政鑑(まさあきら)が城を自焼し本荘を退去。
明治2年(1869年)6月 版籍奉還により本荘・亀田藩主は藩知事となり藩政改革が実施される。
明治4年(1871年)7月14日 廃藩置県が布告され、本荘県・亀田県が成立したが11月、秋田県に統合される。
昭和15年(1940年)3月29日 本荘町長:齋藤弥太郎が、城址を公園敷地として町に寄付。

このページに関するお問い合わせ

教育委員会本荘教育学習課
由利本荘市上大野16 由利本荘市市民交流学習センター内
電話:0184-22-0900 ファクス:0184-24-2714
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。