5.夜神楽 |
神明社の八朔祭には神楽といわれる太鼓芸がみられる。神楽屋台に宮型(吹抜け柱立て屋根造)を載せて、その屋根には飾り付け、宮形の中に獅子頭を安置し、さらに神宮大麻を奉齋している。神楽屋台はさらに太鼓を前後に据え付け巡行するときに囃したてるのである。太鼓は胴長太鼓と締太鼓の二種がつく。小型の風流系屋台とみられ、車がつけられて曳き回されるのである。かつては担いだともいう神楽屋台であったが、今はこの太鼓屋台を含めた難子を総称して単に神楽といってきている。明治34年の「行列帳」によれば「神楽山」とみえるから、明らかに山車系であることを思わせるが、今は単に「神楽」とのみ称し、一般にここでは屋台をいうときと獅子頭そのものを指す場合がある。いずれも現行の八朔祭では、六丁全てからこの神楽が出されている。ここにいう神楽の始まりもはっきりとしないが、明治34年の行列帳にみえる神楽山は、この年に御神輿が新調されて、慶応4年に神明社が焼失して以来渡御もなく祭式のみであったものの復活がされたのであるから、俄に神楽ができたとは考えられない。とはいえ、祭礼記録のうちもっとも古い安政3年の『御神輿行列帳』では「御獅子」「囃子かた」「太鼓持」とはみえるが、これらから今の神楽に同じものかは、判断できない。ただ、御獅子は二頭らしいし、それも前郷人足、向郷人足と記されているから、この時代の二丁氏子によった獅子神楽ではないことを意味し、恐らく神楽は別に二丁内に行われていたことが想像できる。安政年間の祭礼を担っていた氏子二丁である舘町、田中町の獅子頭をみると、少なくとも近世後期と推定されるものであるから、神楽を最初から別仕立てでもって行っていたという見方は、それも全面的に否定はできないだろう。もっとも、安政年間に神楽が存在しないとしても、幕末までには成立していた可能性はある。それはこの神楽が、伊勢太太系神楽とみられ、八朔祭の神明信仰に照らしても必然的に成立していったと推測できるからである。 |
さて、神楽というからには、恐らくこれは太鼓の囃子だけではなく、古くは獅子舞も行われていたのではなかろうかと考えられる。今、この仮説を立証するだけの明瞭な証拠資料を持ち合わせていないが、神楽という名称から思い起こされる江戸神楽のような形式をもつのは、秋田では全くといってよいほどみられないが、反対に太々神楽はかなり多く伝承されていて、むしろこの神楽が匹敵すると考えられるからである。秋田の獅子舞を大まかに分けると、三匹獅子(一人立ち)という所謂ささら系、そして番楽系及び伊勢流太々神楽系(二人立ち)があるが、本荘由利郡一帯には伊勢流太々神楽の系譜をひく神楽が多いこと、それらは単に神楽とも呼んできたこと、矢島では、お神楽といえば獅了頭そのものをいう場合もあること、これらに関わって神楽屋台の宮形に祀られる神宮の神明大麻(神符)と、そこに常に安置される獅子頭にも神明信仰がみられることなどによって、恐らく神楽舞が伝承されていたであろうことが想像できよう。東由利町須郷田の日枝神社祭礼では神楽舞という太々神楽獅子舞があり、これにも神楽屋台が同じような形式で曳き回される。本荘市石脇の新山神杜祭礼の石脇神楽というのも同様で、他に西目町潟保八幡神社の神楽獅子など、神楽という獅子舞にはほとんどの地域でこの神楽屋台というものを曳き回し、獅子舞をするとき以外はこの屋台に安置して巡行することが多いのである。そのようなことから、八朔祭における神楽にも単なる太鼓の囃子とする屋台ではなく、獅子舞という神技芸能もあった可能性があるのではないのだろうか。 |
ともかく、八朔祭に関わる各丁からは必ず神楽が出されるのである。 | |
各丁による神楽の中でも、舘町による神楽だけは夜楽(よかぐら)というものを行う。しばらく中断していたが、昭和59年に復活されて現在にいたり、御託宣による御神輿のお下り前において行われている舘町による神楽の奉奏である。夜神楽は宵宮祭でこの御神輿をお迎えに神社に至ったときに奉奏されるのだが、神楽は拝殿向拝にもっとも近いところでなされている。他丁の神楽屋台はそのころ、お迎えのために境内で待つのであるが、拝殿からはやや遠ざかることになる。神社で、宵宮祭式が執行されて、いよいよ巫女神楽、そして濁川番楽獅子の終わったあとで、夜神楽が囃されるのである。 | |
舘町による夜神楽 |
そして御神輿に御分霊を遷し終えるころまで囃し続けられるのであって、また夜神楽は、お迎えに上がる各丁の神楽囃子、神楽太鼓とは曲が異なっているもので、一種独特のものといわれるのである。したがって、これは同じ神楽でも他丁では為し得ないとされる由緒である。 |
舘町だけなぜ夜神楽という特別な神楽があるのかは確かなことではないが、恐らくこの舘町が近世の領主生駒氏との関わりある町割りのうち、極めて早い町の成立があって、神明社を氏神として崇敬することによって、八朔祭の執行も担うときに中心的な存在を位置づけをしてきたことによるのではないだろうか。それに、現在では夜神楽の奉納とはいっているが、この神楽曲を奏することには、まさに御神輿のお下りという神霊の降神奏楽とする意味があるともみられる。夜神楽だけが、御神輿に移霊をする時にしきりに奏でられるのを恒例としているのはそのためだと、とみられているからでもある。加えて、この囃子が祓いの意味をもつのかもしれない。風流の囃子ものが、悪霊や疫神までも追い払うにあたり華やかに飾り立てたり、笛や太鼓で囃したてて除却することが根底にあったとするならば、同時にこの夜神楽にも御神輿の移霊に際しての特別な意味があったとしても不思議ではない。 |