4.築館神楽
 築館神楽についても述べておかねばならない。築館神楽は、言うまでもなく築館に伝承されてきた、獅子神楽である。近世以来、築館は矢島の前郷になるが、八朔祭に奉仕してきたのは、記録によると大正4年の八朔祭から平成元年までであった。しかし、かつては築館の神楽が始まらないと祭礼ができないとさえいわれたほど、この神楽の重要性が強調されていた、、奉納舞楽にあたる獅子頭が神輿の先頭をつとめることもあり、築館神楽もそれに奉仕してきたのである。しかし、残念なことに現在は神楽そのものが中断している。後継者不足、特に囃子方に伝承者がいないためという。これが、平成元年を最後に神明社の八朔祭に関わることがなくなった最大の理由であった。
神楽獅子頭 築館神楽
 この神楽については、ほぼ最後とみられる演舞を筆者が幸いに見学することができた平成3年の調査記録と、合わせて福田由里子稿「築館神楽」(『偉承拾遺』第16号/平成4年1月/傳承拾遺の会)によるものが詳しいので、これを参照しながらみてゆきたい。築館はその地の名が示すように館として構築された土地柄である。築館寺院跡も遺され、古くからあったところとされる。十数軒の小さな集落であるが、氏神は八幡神社を祀る。荒井太四郎著『出羽国風土記』(明治17年)によれば、八幡神社は城内村築館に鎮座していて、応仁元年(1467)に畠山庄司郎が住したときに畠山氏の氏神としたが、同年には小笠原義久の領地となるにしたがって、以来村民がこれを祀ってきたとされる。現在の八幡神社は八坂神社(祇園社)が合祀されている。この神楽がいつ頃始まったのかは判らないが、少なくとも明治の後期には確かに行われていた。明治37年の記録に「太鼓張り換え有志寄付帳」があり、明治42年の「獅子幕改新帳」は、この神楽の太鼓、獅子幕とみられるから、僅かの資料ではあるものの当時の盛行を紡佛させるからである。神楽はこの地の氏神祭礼にあたって舞われたほか、同じ日に集落中を巡って家ごとに神楽を奏してあるいた。道中は門獅子というもので、神社や家のなかで舞うのは本獅子と分けられていた。特に家で希望することは病に罹った人が祈願のために神楽を舞ってもらうことがあった。このような特別の祈願のために舞われる神楽において、獅子頭の耳が落ちたという不思議なことも語り伝えられて、獅子権現に対しての信仰も深いことが知られる。
 神楽では、権現を鄭重に捧持して、神前で太鼓を立てた上に安置することから始められる。それから獅子頭をもって舞う者が中心にまず獅子を拝む。神楽連中や参列者一同は御洗米と新酒を供え、ろうそくを点けて拝礼をするのだが、この拝礼がないうちは神楽も舞われないのである。舞は、獅子頭を捧持する役の人が採り上げ、それに獅子を被って舞役がつく。後ろの人が幕を広げて採り獅子幕を被って中に入る。そして囃子方を除いた神楽連中が皆この幕の中に入ってしまう。ほぼ7、8人も入ることができるので、従って、獅了幕は相当に大きいものである。勿論この間終始神楽囃子が奏でられて、幕の中に人が入ると次第に舞い動作に移る。古くからの慣習によれば、この神楽に関わることのできのは、集落内に住む42歳にまでの男子と決まっていた。ただし、お産や不幸に罹る人はその年の関わりを憚られる。神楽人数はこのように制限や禁忌がみられ、それだけに信仰的であることがうかがえるのだ。囃子方には太鼓が大小一個ずつを一緒に受け持ち、補助として大拍子を支える者、横笛、手平鉦という構成による。横笛が鳴るとそれに合わせて囃子が始められていく。服装は、全員が黒の一重着物に黒足袋を着け、獅子頭を採る者だけが袴をはくことになっていた。『秋田の民俗芸能』(秋田県文化財調査報告書第二集・秋田県教育庁社会教育課編/昭和38年10月/秋田県教育委員会)によると、文化8年(1811)に八幡八坂神社が祀られたとして、祭神は素戔鳴尊で白馬にのっている神体なので、この地では白馬を忌むため誰も飼わなかったとする。他神社の神像例からすれば、素戔鳴尊ではなく、八幡神の姿こそが白馬にのったものではないだろうかとも思われるが、ともかく、文化8年の創立というのは、先の「風土記」の記事とはだいぶ異なる。
応仁元年説も文化8年説も、いずれも資料的根拠は示されていない。また、初物のキュウリは必ず神社に奉納するので、神前に供える前には食べてはならないという信仰もあった。この神楽は八幡、八坂神社への奉仕の芸能であるとされ、築館講中によって保持されてきたのであった。昭和30年代には確実に4月15日と9月17日に舞われていた。楽器には太鼓、笛、手平金、ササラ竹とあるが、ササラはこの報告書にある以降消滅していったらしく、ササラと獅子の問答や、ササラスリが獅子の尾を捕ったり、鼻を叩いたりするからかいの動作は勿論みられない。太々神楽系でのひとつの特色ともされるササラスリは、この獅子舞に加わってともに踊ったとするが、それは次第に薄れ昭和末年には消滅してしまっていたのである。ところで、『秋田の民俗芸能』によれば、この築館神楽の獅子は前立ち一人に後ろ立ち三人という、舞い手が限定して書かれているが、どうもこれはそうではないようである。実際は何人もが幕の中に入って舞う獅子舞であった。この百足獅子に類したものは他にもあることながら、秋田県内ではめずらしいのであり、築館神楽の場合には何人もの人が幕の内にはいることを、獅子の体の枠をとるためだとされてきたが、その理由では必ずしも大勢を必要とするのではないだろう。むしろ本質的な意味は、小さな村の中での若者中が、この神楽に関わることが如何に大事であったのか、それが何らかの役として、獅子舞連中として獅子幕に入って舞うことが実は祭祀的であったのだろう。神楽が信仰的なものであればあるほど、共同体社会の中での祭礼と芸能への関わりが密であることが看て取れるからである。
 昭和38年当時には種目に、よせ・すが・もみ出し・へいそく・すずのて・ささらすり・狂い・やっこさき・のりがす大明神など、があるとみえている。しかし、これまでは五段としたもので、1寄せ、2操み出し、3幣束の手(拝み上げ)、4鈴の手、5狂い、と舞い進められ、狂いの時にはかつてのようにササラスリがいないため、太鼓(打ち手)が「やっこさく」といえば、舞い手(獅子)が「天照大神」と答えるものとなった。次に打ち手が「菩薩は」といえば、舞い手は「八幡大菩薩」「私はのりかす大明神」と唱えるのである。次に宮獅子というのがある。五段の舞が終わって舞い手が獅子頭を持ち、幕取りが一人ついて、獅子頭で噛む真似をして参列者の頭に翳すことをいう。一種の祓いとされるのである。この中で、狂いは囃子が替わってテンポが急になっている。案ずるに、この時に問答があるのは託宣が形式化したものでないだろうか。そして拍子が早くなるのは次第に神懸かりの状態を意味するのではないのか。憶測かもしれないが、狂いにつけられたササラスリといい、問答は極めて単純な動作や言葉が多いが、重要な舞態が秘められていたと思われるのである。そして、これが神明信仰を顕わす太々神楽であることも判る。
 全県的分布のうちで獅子舞をみることができるが、神楽獅子というのがある。矢島熊ノ子沢番楽も、番楽と称しているが実は「本神楽」だ、と地元の人びとがいっているように、舞態からしても神楽獅子舞であることは間違いない。他に鹿角市川原太神楽、ニツ井町羽立神楽獅子をはじめ、鳥海町大栗沢神楽獅子や伏見神楽獅子、象潟町大森神楽、由利町前郷神楽、西目町潟保神楽獅子、東由利町須郷田神楽、本荘市石脇神楽など、総じて由利郡には神楽が多くみられる。これらは囃子や獅子の舞い動作には差異が認められるものの、獅子を被って舞うことが多く、御幣や鈴を手にして舞う所作があるのは共通するところで、さらにササラがつくのもほぼ同様である。しかし、獅子幕の中に多くの人数が入って舞うという神楽獅子はほとんどなく、それが築館神楽の特色でもあったろう。獅子舞は神前にて行う神技芸能であるから、娯楽芸能とは全く異なる。神技芸能とすることは獅子問答が託宣形式をもってみられるということ、獅子頭に対する信仰が極めて高いということなどをみても判るだろう。隠居獅子、現役獅子など、棒持する、安置する、神輿渡御や神事には祓いの意味に獅子が先頭に必ず立つ。それに、舞が火伏せにもなるという信仰は他のものにはみられないのであり、ここには確かに神威的要素が介在しているに違いない。もうひとつ、この神楽舞には神明(伊勢)信仰があるということだ。由利地方は神明信仰が広く濃密に流布していて、伊勢講中、万度講中などが多く存在する。築館にも伊勢講中があって、かつては三組もあったという。その築館の伊勢講中では嘉永6年(1853)の講帳記録が遺されていることからも、早くからその信仰をもたらしていたことがうかがい知れる。神明信仰と密接な関係をもつ神楽舞は、舞態や先に示す唱え言葉などの要素をみても伊勢流太太神楽の流れを汲むものとみて差し障りはないであろう。神楽獅子舞が悪霊を祓い、無病息災、五穀豊穣などを願うとされる神技芸能が、神明信仰に深い関わりをもつということなれば、水上の神明社八朔祭に関係することは極めて意義に適っているといわざる得ない。
 かつて、この築館神楽が八朔祭にとって、「築館神楽が始まらないとお祭りができないとさえいわれてきた」(「築館神楽」)というのは、宜もないことであったのは以上に述べる如くである。すなわち、八朔祭と神明信仰が深い結びつきをもっていることも意味しているのである。大正4年以降という、比較的新しい時代になる築館神楽の関わりではあるが、それまでの荒沢獅子舞にとって替わったのは八朔祭の風流にふさわしい奉納芸能としてより近くなっていったのではなかろうか。荒沢獅子舞も八朔祭では獅子の信仰としてなくてはならない祭礼の構成要素であったが、その衰退によって替わった築館神楽が、神楽という曳き山車状の囃子神楽屋台と根底的に密接した信仰に関わって取り入れられた、むしろ本来的な祭礼信仰に通底したことといえるであろう。したがって、築館神楽がなされないと祭礼が整わないといった意味の口碑には、潜在的な神明信仰に託された風流の芸能として必要不可欠であり、必然的なものであったと考えられよう。
  

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