3.宵宮祭礼の神社奉納舞楽
 神明社の八朔祭は宵宮における祭式及び渡御が中心となっている。宵宮祭式では数々の奉納舞楽を初め、その後にお下りという神輿の渡御がある。お下りはさまざまな威儀物や旗指物を従えて、神輿、神楽屋台などの行列が豪華に繰り広げられることにより、しかも夜間になるため一層賑やかさを増すのである。さてここでは、現行の神社での奉納舞楽についてみておきたい。そこでまず番楽獅子について触れておく。番楽獅子は前項でいうように、濁川獅子舞連中が奉仕をするものである。しかし、それはあくまでも統前町が奉納する番楽であるから、現行の当番丁にあたる四丁(舘町・田中町・城新・七日町)のうちからは番楽獅子舞を持つところはないために、荒沢郷の濁川獅子舞を依頼する形をとっているのである。当番丁では統番として総合的な主体となって祭礼を維時進行させるのであるが、古くからの慣例による獅子舞番楽が自丁に保持していないからといって止めるわけにはいかないとされ得る。そのわけで依頼によるものではあるが濁川獅子番楽における獅子舞が演舞されてきているのである。奉納舞楽というが実際は濁川獅子舞と巫女神楽舞、それに神楽太鼓が含まれる。
 祭式による奉納舞楽に入る前までの流れを追ってみると、濁川獅子舞は濁川の宿を午後に発つと、宵宮祭の始まる直前まで、各丁内を獅子振りをしながら門付けしてまわる。やがて、時刻、神明社に参着するように丁内を巡りながら進んでくるが、獅子頭をもつ獅子振り二人に介添人、太鼓、笛、鉦がひとりずつ、の順に列をなしてまとまってくる。獅子舞講中の人びとの服装は、鉢巻きを付けた獅子振り人とともにそれぞれは、別当衣装、袴、朱だすき、白帯、足袋、刀、神刀をつける。これらは基木的な番楽獅子舞の衣装とされるが、刀は以前から伝わったもので、これは獅子振り人が佩く。ここでは獅子舞のみが行われるために最少の講中員で構成されるが、最低5人は必要である。そして、獅子舞連中が神社直ぐ下のお神坂にさしかかるとコウジョワタリ(小路渡)の拍子をつけて囃子ながら威勢よく神社拝殿に上る。神社参着にあたってまずは拝礼となる。拝殿に上がると囃子はやめて獅子頭は太鼓を立てた上に安置する。獅子の安置は太鼓のうえとされるのも作法である。拝殿では当番丁氏子代表の人びとの脇に番楽舞の準備をしながら座を占める。やがて祭式が始められ、修祓、祝詞奏上、の後に舞楽の奉奏となる。
 いよいよ宵宮祭式が始まり、奉納舞楽の奉奏となると、はじめに浦安ノ舞という当番丁内による二人の少女が、千早に緋袴、花簪をつけ、檜扇に鈴を採って舞う巫女神楽である。巫女はかなり早くのうちで2名当番丁から選ばれるが、選出の条件、資格、その他は必要とはしない。ただ、四年に一回のことであるから、当番丁にあたっても必ずしも同じ人が奉仕するわけではない。事前に練習を重ねて宵宮祭に望むものである。この浦安の舞というのは、皇紀2600年記念(昭和15年)に創作された巫女神楽舞で、全国の各神社に伝承されている舞で、扇の舞と鈴の舞があり、神楽唄は昭和天皇の御製である。

浦安ノ舞

濁川獅子舞番楽
 さて濁川番楽獅子舞は、この巫女舞の後に続けて行なわれ、拝殿真中に獅子振り人と幕取りが進み、神前に向かって舞うことになる。囃子がつけられるが、濁川番楽獅子舞の場合は五拍子といわれる。舞が始まる時、獅子を捧持するのは幕取りが行うもので最初は神舞といって、何も採らずに手を振ったり回ったりする素舞をして、次に扇、次に刀を、次にたすきを採って舞う。このように神舞は獅子を採らずに舞うものであるが、太鼓打ちによる謡があって、
 ここは何処 長門の庭や たちどころ 千早振る神や 鳥は舞い鳥 鳥は舞い鳥(素舞)
 扇を採り 扇を採りそめ 扇を採る 扇を採りそめ 扇を採りそめやー      (扇舞)
 毘沙門 左の脇差し ぬいでみれば こうこの光 悪魔払いの 悪魔払いのやー(刀舞)
 あーら 十七八赤い橡を誰も持ち 誰も持ち そめわかの そめわかのたなー (欅舞)
と唱う。この謡の文句にあるようにも悪霊を祓い却る力があると信じられてきたのである。そして、次に獅子を採りいわゆる獅子舞となるが、これを奉納獅子または獅子振りという。獅子振りでは、素舞をした獅子振り人が獅子を両手で採り、幕取りはこの後に獅子幕を常に持ち上げている。始まりは座って振り出しをして、次にナヨリをする。ナヨリという舞い動作は、獅子幕を自分の体に巻きつけながら獅子頭を高く天井にあげていき、この時のナヨリ獅子の姿をみて、参拝者は柏手を打って拝む作法がみられる。ナヨリの意味は不明だが、謡の中には、
 あーら ナヨリナヨリとこの松は ただ広ナヨリ 御幣なるものは ナヨリとこの松は
  やや面白や 御幣なるもの 御幣なるものやー
と唱えるように、天井を突くかのように一本に立ち上がった獅子の姿を神の依り代とする御幣に見立てて、これを祀るということにあるのかもしれない。人びとがそこで拝礼をする所作からみて、極めて信仰的な舞態を顕わしていることが想像できよう。次に幕は元に戻されて、体から離し、獅子頭の歯を噛み合わせる。この時には太鼓の打つ音に合わせるもので、拍子が早くなるにしたがって、獅子の髪も激しく振り乱され、まさに獅子振りとされるのはこれを指していうものであろうか。
 現行の濁川番楽獅子舞は、神明社の鎮座する水上から、さらに鳥海山に登っていく途中の集落に伝承されたきたものである。集落といっても僅かの戸数しかない地域で、荒沢に組み入れられてきたところからも、特に獅子舞については、荒沢に没した本海行人の直伝のもとに習い伝えてきたということと、荒沢番楽獅子舞連中によって伝えられたという、つまり間接的に荒沢の獅子舞から伝わったともされているが、定かなことではない。しかし、由来を伝える元治元年(1864)の『獅子舞根木記』(筆者不明/濁川獅子舞講中蔵)には、「此獅子舞の祈り事天下太平国土安穏五穀成就何かなる天魔厄神も相ぬかれ候御事に御座侯」「此獅子舞習ひ始めに於いては不精進に不成随分身を清め天照太神宮八幡大菩薩春日大明神此三神へ祈誓を懇相勤め可中し侯様に本海坊申し伝へ被置候事也」とあるように、この三神の信仰も深く、五穀豊饒を祈って舞われるとされる。さらに権現である獅子は不浄を嫌うことから、舞に関わる人は特に精進しなければいけないとも伝える。「根本記」の冒頭には、獅丁舞の由来を尋ねるに、地神五代末になる伊弉冊伊弉冉尊の御子とされる天照大御神が、この世を開いたときに天ノ岩屋戸に籠もられた前で夜を徹してお神楽を行ったことに始まるという。「御湯捧げ奉る末万歳之祭式と成り今の世迄も獅子舞と申す者是れ也」ともあり、獅子舞は万歳を祈る他に、天照大御神の信仰も関わりのあることと位置づけている。矢島の神明社は祭神をこの天照大御神とするのであるから、番楽獅子との繋がりも決してないわけではないだろう。「根本記」にもみえることながら、舞の数は12番とし、崩して48番を伝え、拍子は本開き五拍子とした。現在は先番楽、獅子舞を始め全て26番を伝えるものである。番楽舞では先番楽・鳥舞・翁・三番神ではじめて舞い、念事・扇子的・キサラド・一人番楽・地神舞・暦舞・船弁慶・番所・曽我・山ノ神舞・潮汲み・三人立ち・女舞・祖父翁・切合・別当・今田八郎・鐘巻・沙門・機織り・信夫・岩戸開きなどの式舞、さらに女舞・武士舞・可笑しなどがあった。明治15年の言立本には、翁舞、三番神、念事、扇子的、キサラギ、一人番楽、地神、船弁慶、番所、潮汲み、女舞い、祖父翁、切合、木曽、今田八郎、鐘巻、沙門、別当、機織り、織掛、信夫、岩戸開き、鳥舞、桜子などがみえて、舞われてこなかった舞があることも知られる。濁川の獅子舞番楽の草創は不明だが、「根本記」の末尾によるように「維時元治元年甲子星中秋日写書之」とあるから、元治元年(1864)以前の伝承であることには間違いないし、明治15年の言立本、明治37年建立の師匠碑や同43年の紀年名のある道具箱が現存するから、この獅子舞番楽が明治から昭和初期にかけてすこぶる盛んであったことが知られる。また昭和初期には他からの要請により盛んに演じられてきたというから、荒沢獅子舞が八朔祭で行われなくなる時期には濁川獅子舞番楽が荒沢地域にとって替わっていったのかもしれない。八朔祭に今行われる濁川獅子舞は木境大物忌神杜の祭礼である虫除け祭においても行われ、それには特に獅子祭祀のあり方の一部を占める(矢島町教育委員会編『木境大物忌神社虫除け祭り』/平成11年3月/同教育委員会)ものであり、その他に正月は悪魔払いといって集落中を廻って祈祷舞をする行事もある。ここでは殆どの人びとが、獅子舞は信仰のために行われるものであると信じらているのであり、五穀豊饒、無病息災、家内安全を守護してくれるというのである。獅子を権現として信じると同時にその舞は極めて神威のある神技とみなされ、奉納舞楽とはいえ、こうした八朔祭そのものにも獅子権現の神威が浸透しているといえよう。
 八朔祭礼上でいえば、獅子頭は御神輿の巡幸にあたって捧持され、神楽という山車に御神体として安置されて廻り、獅子舞をもって神威を顕わすという信仰の、凡そ三形態があることが判る。
 

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