2.獅子信仰と八朔祭 |
神明社における八朔祭祭礼にともなって、現在は獅子舞による門付け、祭礼祭式中にも獅子舞の演舞、さらに御神輿の巡幸に獅子が伴うことになっている。 |
明治23年の当番を舘町としたときの記録以降によると、断片的ではあるが獅子舞や神楽といわれるものの関わりが判る。それによれば、 |
明治29年 神楽九日町 丁内神楽の後、荒沢獅子 |
明治40年 神輿の後、各町神楽山 荒沢獅子舞 |
明治43年 荒沢獅子 |
大正2年 荒沢獅子 |
大正4年 築館神楽 |
大正5年 毎年築館神楽 |
大正13年〜平成1年 築館神楽 |
平成2年 坂之下番楽 |
平成10年 濁川番楽 |
というようになる。これによってある程度の変遷が判ろうが、古くは荒沢番楽獅子が関わり、それに丁内の神楽獅子を伴ってきたとみられる。神楽は獅子頭を屋台に安置して、そ屋台には小形ではあるが吹き抜け柱立て屋根である神殿状のものが載せられ、この中に獅子頭を安置したものである。それでも、他に神楽といえば獅子頭をそのものを指す意味もある。略年譜にみえる築館神楽は獅子舞を演じることのできる、本来の獅子神楽である。番楽獅子は、番楽に伴う獅子舞をさしている。このような獅子に伴う信仰や行事が八朔祭に全て行われてきたのであった。 |
ところで獅子舞といえば、ほぼ由利地方一帯には獅子舞といわれるものが盛んで、多くの伝承が遺されている。獅子舞といえば主として番楽における獅子舞をいうのである。山伏神楽の一種ともいわれる番楽のうち特に獅子舞をもって、これまでは獅子舞とのみ呼称されてきたところがほとんどであった。恐らくは、獅子舞をもって数々ある番楽舞のなかでも際だった特色とみなされ、さらに、獅子舞は番楽の演目中でも集落をめぐって門付けをして回る行事にそれのみが行われるように、番楽とはすれども獅子舞が特に代表されるものか、はたまた獅子を権現として崇めて、獅子舞こそがあらゆる番楽諸舞を掌握するか、いずれにしても獅子舞を中心とした信仰によるものだろう。ともかく、矢島における獅子舞は、今日番楽と総称されてはいるものの、遺されているのは坂之下番楽・濁川番楽・熊之子沢番楽の獅子舞である。かつては荒沢獅子舞番楽もよく知られていたが、荒沢のそれは既に途絶えてしまった。矢島に隣接する由利町では番楽系の獅子舞として、屋敷番楽・町村獅子舞・蟹沢獅子などみられ、このうち屋敷番楽は矢島の坂之下番楽と兄弟獅子であるとする伝承をもつ。さらに鳥海町でもすこぶるこの番楽獅子が多く遺されていて、矢島町に近いところをあげても、二階番楽・平根番楽などの他、10地域以上にみられる。矢島とその周辺における番楽系獅子舞のほとんどが、本海流獅子舞といわれ、本海坊がその番楽獅了の創唱者とされることから、その系譜を受け継いでいると伝える。したがって、番楽獅子がこれらの相互的な影響があるととすることは、いうまでもないだろう。 |
荒沢獅子についてみると、恐らく早くから八朔祭に関わっていたと考えられるが、明治末期には獅子舞番楽自体の衰退が著しくなったのであろう、大正2年の時点には荒沢獅子がみえるものの、3年の年は記録に欠けていて、この年まであったのか、なかったのかは、いずれとも正確には判断できない。それまでは、荒沢郷には荒沢の地で没したとされる本海行人の碑があるように、番楽獅子舞の発祥とされてきた。荒沢獅子舞番楽は、この地方一帯での同様な獅子舞番楽のうちでも古風なものであったといわれるが、それが消滅したことは惜しまれもする。今日の八朔祭で行われている濁川番楽獅子はこの荒沢獅子から伝承されたとも伝えられるなど、やはり番楽獅子舞では中心的存在のひとつであったと考えられる。荒沢の獅子舞の由来を語るものは少ないが、荒沢の氏神は根城八幡神社として、神社には当時から存在すると思われる獅子頭が遺されている。この獅子頭には頭頂に半車の紋を抜きとった真録の金具がつけられていて、これからも生駒藩主との関わりが知られようというものだ。また、灘子に使われてぎた太鼓の内側の墨書には天保11年(1840)と記されているから、近世中期には獅子舞も確かに存在したであろう。八朔祭に関しての「荒沢獅子舞」とみえるのは、荒沢字荒沢のこの獅子舞番楽を指してきたと思われる。荒沢の獅子が御用一番獅子とも称されていたことは、確かに獅子頭の頭頂に矢島領主生駒氏の半車の紋を戴いているからでもある。『獅子舞根本記全』(大正5年・金子佐治右衛門整理/三浦与茂吉書によっても、元亀天正の頃に大和国より本海坊が荒沢に伝えた番楽の系譜をひくとされる。八朔祭が矢島藩生駒氏のと繋がりの深い祭礼であることを考えると、この獅子舞は必然と関わって至当ということになる。しかしながら、大正4年の時点でこの獅子舞は八朔祭には出てこなくなる。その理由ははっきり判らない。これまでに少なくとも二丁(田中町・舘町)氏子、及び現行の六丁氏子地域内での番楽獅子舞は伝承されるところがないことから、八朔祭にも獅子舞を出そうとしても出し得ないのであった。してみれば、荒沢のように神明社の氏子地域ではなくとも奉納獅子舞としての依頼によるものであったか、荒沢獅子舞が自発的に奉納していたのか、経緯は不明といわざるえない。しかしながら、ともかくこうした荒沢の獅子頭と獅子舞は近世以来、大正初期まで八朔祭に深く関わってのは事実である。荒沢獅子舞番楽の言立本による詞章からは「あれは何処(いずく)の翁ぞや、峰の松、沢辺の鶴や…」という歌謡がある。ここに問答歌の形式がみられると指摘する向きもある。井上隆明稿「秋田県民俗芸能と研究の流れ」(秋田県教育委員会編文化財調査報告書第227号『秋田県の民俗芸能』/平成5年3月/同教育委員会)には、神楽歌の原型としての五五五七七型で古事記に典型したと指摘しながら、立体的構成の問答形式からは神事や農事の芸能の要素があることを類推している。獅子舞と番楽では厳密にいうと違うのであるが、どちらも信仰的要素が高いことと、それに農耕信仰が存在することでは神明社八朔祭の信仰と相関したものであったといえまいか。 |
荒沢獅子舞番楽に替わって、平成2年からの坂之下番楽獅子舞もまた、荒沢獅子舞同様に本海流番楽のひとつとされ、今日まで1月20日を幕開きと称し、この日から番楽始めとして舞われ、春秋の杜日、5月2日、8月14日すなわち盆日と11月中旬が幕納めとなり、その年の最終としている。坂之下の鎮守社で行われる社日に奉納獅子のほか、盆日には獅子舞をもって集落をめぐる門付けをしてきたが、獅子舞のほかに四季、翁、三番隻、地神舞、山ノ神舞など全部で19演目を伝承し、その舞態は中腰に舞う点と、全ての舞にはくずしというものが加えられていることを特色とする五拍子の舞とされる。坂之下は熊野神社を氏神として、この舞を奉奏する神社にはかつて三体の金の神体を祀っていて、何時の世にかその二体が盗難にかかり、それで神体を朴の木で刻み祀ったとされ、土地の人は朴の木でつくられた下駄は履かないものとされていた。このような信仰のうえに、坂之下番楽の獅子舞に用いられてきた張り幕には生駒氏の定紋であった半車紋が染め抜かれていたとされるが、今は古い幕をみることはできない。衣装のうち鱗模様は特に龍虎衣装といって大事に取り扱う風が遺っている。この番楽獅子には、特に火難除けとされる柱からみとった家の四方柱に紅白の布をまいて、これに神酒、刀、手拭い、扇、幣束、洗米、塩、するめなどを供え、獅子が振り込むというものもみられた。坂之下番楽獅子舞はこのような舞と信仰をもっていて、僅かの年数ではあるが神明社八朔祭にも関わってきたのであった。荒沢の獅子も坂之下の獅子も、いずれにおいても獅子が獅子舞を伴って門付けに回り、人びとの信仰を惹きつけてきたのである。 |
先の略年譜にいうように坂之下の番楽獅子舞が八朔祭に加わることになるのは、荒沢獅子舞が早くに衰退していった後、築館神楽が暫くこの祭礼に奉仕することとなり、しかしその築館神楽も後継者伝承がうまく行かなくなり中断という已むをえない事態にいたることによって、ここで初めて坂之下香楽獅子舞が奉仕することになる、、坂之下番楽も八朔祭に獅子舞を行うことは比較的新しいことといえるが、獅丁舞の本仕からみれば荒沢獅子舞、築館神楽、坂之下番楽獅子舞も、いずれも近世は前郷・向郷に属する村落に存したのであるから、安政3年『御神輿御行烈帳』にある「御獅子人数」に準じた奉祀のあり方に則しているといえる。最も新しく奉祀に関わったのが濁川番楽で、これは現在も行われている番楽獅子舞であって、濁川は前郷の大字荒沢にはいるから、近世以来続いてきて獅子の関わりとしては前郷に属した伝統のことといなくもない。 |
さて、濁川の獅子舞番楽の言立本でもある『獅子舞根本記』をみるに、「漸漸急ぎ行く程に…」と始められる言立が多くあり、中には「イヨーン、ならくはならくは底に沈むも御法り船にうかばざらん。来る春や東の空の果てまでも…」という詞章が記されている。井上隆明稿「秋田県民俗芸能と研究の流れ」(前掲同書所収)によると、これは明らかに幸若丸の影響を受けているという。越前(現福井県)生まれの幸若丸という武士舞は、信長はじめ諸国の戦国時代の武士がすこぶる愛好したというのが秋田にも存在したと指摘するのである。もし、この幸若舞の要素が多分にあるとするならば、幸若舞を武十の芸能とはいうが、実は農村に発して都市の民衆に愛好されて発達したと考えられているのであり、そこには説経節との関係をみながら考えていかねばならないものの、越前が発祥とされることや、能楽をはじめ芸能を好んでいたといわれる生駒氏も、そこになんらかに惹きつけられることがあったと思われる。濁川獅子舞番楽に幸若舞があるとすれば百合若大臣説話に共通するのであり、在地伝承にすこぶる影響しながら番楽に取り入れられたとも考えられる。一種の八幡信仰もうかがえるから、当時にあって一層、藩主や武士に享受せれられるものであったことと解される。神明社八朔祭にはかつても、必ずしも獅子舞番楽そのものの演舞が直接関連しているわけでもないが、武士と庶民との信仰においては受け入れる素地は充分にあったのかもしれない。ただし、濁川獅子舞番楽にあって、時代的に八朔祭としては極近年の関わりしかないことはさらに考慮されなければならないことであろう。 |
濁川の獅子舞には、奉納獅子と祓い獅子があり、祓い獅子は戸毎に悪魔払いと称して回る。祓い獅子は正月元日、それに盆13日には神社からはじめて集落内各戸を巡って獅子を振る。そして幕納めの日に宿が遷される。獅子の舞い手を獅子振りと幕取りとの2名で行う。いずれにも難子がつけられるのである。獅子舞講中というように獅子をもって主体とするからには、獅子舞、獅子頭に対する信仰には特別に深いものがあり、獅子は荒々しいことから世の中で一番怖いものだとも信じられてきた。濁川では正月に集落内各家を訪問してそこで獅子を振る。かつては石瀧や大谷地まで門付けしながら廻ったという。悪魔払いの意味とされてきたのである。そして7月8日には木境大物忌神社の祭礼である虫除け祭りでも重要な役目を担って信仰されている。ここでの獅子は、普段オブツナ様と呼んでいることから、山ノ神という氏神に安置されてその関係が紡佛されるであろう。坂之下獅子舞講中のように、時には獅子舞が新築の家などから依頼を受け火除けとしての祈祷獅子舞を行うこともある。これを柱がらみというが、この時祈祷してもらう柱には紅白の幕を巻きつけておき、これに噛み、からみながら舞うことによって御祓いとする信仰もみられる。つまり、獅子舞番楽の獅子にはこのような力もあると信じられているのである。また、獅子頭を普段は講中宿に安置するのであるが、獅子頭には喉幕を噛ませて、髪で面を半分くらい隠しておくとされる。常に歯を喰い縛っていることから、獅子頭を休めておく場合は必ずなにかを噛ませておかねばならないというのである。獅子頭の様態からくるかもしれないが、このように噛むということによる偉大な力が発揮されることの信仰を認めているのであろう。正月には獅子頭には幕ではなくオブコ餅を噛ませて、お供えをするという信仰もある。オブコ餅とはお供え餅のことであり、獅子講中では宿に祀られるこの獅子に鯣(するめ)・昆布・オブコ餅を供えて拝むものとされる。獅子頭に対した信仰はこればかりではなく、移動または獅子振りをする行事のために動かそうとする時のはじめには必ず神酒、鰯などを供えて拝礼し、神酒を拝戴してから行うものである。要するに獅子を権現とみなして、このような作法や信仰においては、やはり根底に悪霊除却・火難除け・五穀豊饒などの成就をもたらす神威を持っと考えられているのである。 |
これらの獅子頭、獅子舞番楽は水上の神明社に直接由来するわけではないが、矢島地域一帯には獅子頭に対しての信仰は深く、御神体同様に扱われるが、隠居獅子というのもあり、かって舞われてきた獅子頭を休ませて、新しく同様な獅子を造ってそれを現役獅子として舞うなりすることが多い。濁川ではこの隠居獅子は山ノ神神社に安置しているが、現役の獅子は大正10年代に高橋長治郎作で、塗りは田中町加納熊平と伝えられ、それは講中員が1年ごとに交替するという当番宿に安置されれてきた。現在は、獅子講中が10軒で順番に宿を勤めることになる。宿では獅子頭を1年安置するとともに、ここから全ての行事が始められ、獅子講中の集まるところともなってきた。このような背景にあって、獅子頭に対する信仰は八朔祭そのものにも寄せられることはいうまでもないことで、この祭礼に必ず獅子信仰が関わることの意味が実に深いものであることが認識される。 神明社は慶応4年の祝融に遭い烏有に帰すことになったが、社伝によれば寛永17年(1640)の生駒氏所領以来崇敬があり、鎮守としてきたという。元禄10年(1697)の国絵図にみえる「御伊勢」社は、今の神明社とみられることから、近世中期には存在が確実といえよう。そしてこの祭礼は生駒氏の所領以来のこととして、陰暦の八月朔日をもって領民あげての祭礼が執行されてきた、ともいわれる。八朔祭がなぜに神明社の祭礼としてきたのか、他には領内神社でもって替わる祭礼がなかったのか。この問題は的確な資料に係ることがないのだが、八朔祭が稲作農耕信仰に由来するものであり、その信仰をもっとも担うことのできる神明信仰と相侯って、神明社祭礼に由来されたのであろうことが想起される。この点では神明信仰、伊勢信仰の深さが矢島全体にみられることでも、具現的な信仰の表出にあたる中心的神社であったといえよう。獅子頭をもって神明の権現とする信仰は獅子舞番楽の中にもみられ、また八朔祭礼だけについたとみられる神楽と称する小型の曳き山車状のものには、獅子頭と神明様(神宮大麻)を安置していることからも、より具体的な神明信仰が指摘できる。しかし、矢島のこの神明社自体では獅子頭を保有するものではないことが懸念されるかもしれない。しかし、それについては社殿その他が完全に烏有に帰したというから、かつては獅子頭があったとも考えられるが判然としないのである。 |
獅子権現の信仰は八朔祭と無関係ではないことはさまざまな事象から判ろうが、現行では八朔祭前日の夜には濁川獅子舞番楽が氏子町内を門付けして廻る。濁川では正月中に行っている悪魔払いの門付け獅子舞は、他所では大抵盆日の獅子舞番楽が集落家々を巡ってあるく悪魔払いという風習に同じく、この八朔祭においても倣ったものである。ただし、この時に各家々では屋内での舞祈祷はなく、門口において囃子と獅子舞の若干を納めていくもので、家々からはこの時に初穂が差し出される。それでも獅子は目出度いもの、聖なる舞とされているために、不幸があった家はヒが悪いといって避けられる。さらに宵宮祭の夕刻、祭式が始まる前まで同じように獅子で悪魔払いの門付けをしながら、神社のお神坂を上ってくるのである。また、六丁の若者はそれぞれ自丁のお祓いといって神楽の獅子頭を捧持して、太鼓、笛の囃子を伴って、これもまた一軒一軒お頭を門口で噛み合わせる所作をしながら祓いをして廻る。このように、八朔祭と獅子頭の関係は極めて密であり、むしろこの信仰は切り離すことのできないことが理解され得るであろう。その根底には神明信仰と獅子の関わりもみえるもので、八朔祭を構成する重要な部分でもあるといえる。 |