第三章 芸能伝承と八朔祭 |
第一節 神明祉と神楽獅子 |
1.神明社八朔祭と獅子頭の関わり |
矢島神明社は、その氏子を城内という旧矢島町を含めたほぼ中心地の生駒氏領陣屋の下方に位置する丁内で、六丁としている。今日では氏子六丁といわれ、即ち、田中町・舘町・七日町・城新・水上・新丁である。しかし、六丁を最初から氏子としたのではなく、明治34年以前においては田中町と舘町のみの二丁氏子であった。これは直ぐさま八朔祭を担うことになる氏子丁内で、その他は氏子としての関わりはもっていなかったとみられる。近世にはこの二丁が早くから城下における外町を形成してきたことから、二丁を主体として祭礼を行ってきたのであった。八朔祭の起源は定かではないが、少なくとも近世には田中町-舘町を神明社の氏子格として祭礼の主体としていたことが、『郷社神明社祭典記録』(明治23年旧暦八朔/舘町所蔵)によるところの、「神明社の儀、藩政の頃は矢島第一の宮にして、藩主の命令に依って両丁隔年の世話番を立、祭礼執行致し来り侯」とみえるように、ここでいう両丁とは田中町・舘町をさしていることからも判るだろう。それが、やがて明治34年以降の祭礼においては七日町、新町(城新)の二丁が加わり、さらに周辺に人家が増え、枝丁もできることにより、再び昭和21年以降には水上と新丁が順次関わることにより、現在の六丁となるにいたったのであることが知られる。神明社が鎮座する丁内を今日は水上としているが、水上丁内が関わりを持つのは後のことであり、それまでは複雑な氏子関係があるともいえよう。さらに、氏子六丁はそれぞれの丁内鎮守社をもつが、各丁内氏神社には獅子頭を奉祀して権現として崇めてきている。この八朔祭では獅子頭が祭礼の信仰に関わりをもち、深い関与を示している。 |
神社の祭礼には獅子舞が行われたり、神輿の巡幸や神事の祓いとして巡行する風は広くこの地域一帯にみられるのであるが、神明社の八朔祭には、各丁内から神楽と称される獅子を安置した屋台が必ず出されてきた、さらに番楽獅子が別に加わり、この獅子頭もまた権現信仰の一翼を担っているものである。神明社では獅子頭を保持しないが、八朔祭を人祭としているこの祭礼に獅子頭を抜きにしてはできないともいわれる。氏子六丁それぞれの獅子権現を基にして祭礼において大きく関わってきた。ただ、氏子六丁には獅子頭をもって行う独自の番楽や神楽芸能はみられない。それは神明社に伝わる獅子芸能がないことにも関連しているだろう。したがって、獅子頭をもって行うのは今、六丁から若者らによる神楽屋台につく太鼓等の囃子であり、番楽獅子等は他集落の奉納奉仕によるものとなっている、祭礼に関わる権現獅子といったものは、安政3年(1856)辰7月晦(日)の記録にかかる『御神輿御行烈帳』(大井家所蔵文きによっても判り、神輿行列に際しては、 |
御獅子前郷人数七人 |
御獅子向郷人数七人 |
とみえ、前郷、向郷による獅子があったことは明確である。ここにみえる獅子とは、獅子頭をもって「御獅子」としているに間違いないが、現行の神輿渡御行列による獅子のように番楽獅子舞連中による供奉であったのか、単に獅子頭を捧持しての供奉かは、定かでない。しかし、ともかく八朔祭の祭礼には獅子頭は深く権現信仰と関わっていることだけは疑いないのである。 |
それにしても、神明社自体による獅子頭の関与はこの祭礼にあたっては当初からとはしていなかったとみられる。何故ならば、この獅子は、安政3年時の獅子人数とある前郷、向郷が子吉川の右岸と左岸に分かれた両地域を指していて、前郷は寛永17年(1640)以降、城内村・九日町・あら町村・七日町村・荒沢村・根々荒沢村・小板戸村・須郷田村と郷内村の一部とされ、向郷は子吉川右岸に位置する正保2年(1645)以降の平生森村・坂之下村・新庄村・中山村・八つ杉村・指鍋村・木在村・小坂村・杉沢村と郷内村の一部であった。したがって、かなり広い範囲の村々から獅子人数として関わっていたことが判るが、番楽獅子舞としての獅子であったか、または神楽獅子舞としての獅子であったか、単に獅丁頭の権現として供奉したのかも、これだけではほとんど知る余地がない。近世おける八朔祭にあたり獅子が御神輿の巡幸に供奉するという以外にどのような関わりをもっていたのかは、資料の披見にかかるものがなく実体は残念ながら不明といわざる得ない。安政3年の『御神輿御行烈帳』による限り、丁名が出てくるのは、田中町と前郷、向郷のみで、「行烈帳」が当番丁である舘町に属するとみられることからしても、獅子頭に関わるのは田中町−舘町以外の周辺村落からの奉仕ということになる。「行烈帳」によれば、近世では、この祭礼が神明社の社人、杜僧、そして田中町・舘町の人びとを主体とするものであったが、藩士、足軽、徒士などのほかに、さらに向郷、前郷の人びとも出仕してきたことも判る。要するに、神明社の氏子範囲を超えて、広い村落による祭礼が組織されていたとみられるが、この時点においても獅子頭に関わっては田中町・舘町以外によるものであったといえよう。還言するならば、神明社の八朔祭は矢島領内の崇敬をもって行われていたと看なすことも可能で、ここにいう獅子頭の奉祀もその広い崇敬の中からあたっていたとみるのはやぶさかではないだろう。 |
現行の八朔祭に関しての獅子頭は、獅子頭を権現として崇めるとともに、大凡二つの系統に分けることが可能である。ひとつは祭礼の祭式に奉納演舞される獅子舞によるものと、それに御神輿の巡幸に供奉する獅子頭で、一方は神楽屋台に安置され、宵宮祭日を主とした神輿のお下りとともに御旅所までに供奉するなどの神楽と通称される獅子頭の信仰である。近代に至り明治23年、当番丁舘町記録以降によると、跳び跳びながら若干の記録が見い出せ、それには明治29年に神楽を九日町とし、丁内神楽の後に荒沢獅子舞が行われたとある。とすれば、少なくとも明治30年以前においては神楽獅丁と番楽獅子とのふたつが八朔祭に行われたきたとみてよいだろう。獅子頭を権現と崇める信仰とともに、この神明社八朔祭においては獅子頭の関与が不可欠の存在であることには違いない。 |