2.八朔祭における武家と町人の信仰 |
神明社の由緒をたどると、その創祀年代は不明である。中世大井氏の支配時代には創立していたのかも、資料に欠けるために明確ではない。社伝によるところでは、寛永17年(1640)に生駒壱岐守高俊の矢島藩創設以来の崇敬社であるとして、この時以来鎮守としたという。それでも鎮守というのは前郷鎮守の意味か、城下丁内鎮守か、生駒氏陣屋の鎮守かも解らない。『矢島町史』によれば一郷領地の鎮守と解していて、領民がこぞって崇敬したという。後に明治6年という早い時期に郷社に列格しているところをみると、郷内鎮守とみてよさそうである。元禄10年の絵図面には水上に明らかに「御伊勢」とみえるのが今の神明社にあたるとされ、宝暦8年(1758)の「御領分中覚書」に「神明宮御祈祷所十社之内別当実相院」とか、文政10年(1827)の「分限帳」に寺社料として「拾表神明堂」というのがそれである。神明社はこのように領主の崇敬も篤かったことが判り、特に「御祈祷所十社」の内でも相染明王社と並んで総鎮守としたものであった。実相院は城内にいて照皇山実相院といい、宗徒であり、神明宮に奉仕していたもので、山号にあたる照皇山は神明社祭神の天照皇大神に由来していることは明らかで、絵図面によってみると神明宮と愛染明王社は並んでいたことが判る。愛染明王社の別当は、度々移住しているが文政8年(1827)には七日町(豊町)に住した金剛院であった。当時、金剛院の奉仕する愛染明王社は相当古いらしく、生駒氏領となる以前の矢島を津雲出郷と称した頃から祀られてきたと伝える。明治2年の「矢島郷別当復飾之控」(姉崎岩蔵著『鳥海山史』所収/昭和27年6月/矢島観光協/には、「当国総鎮守愛染明王慶雲之頃津雲出之郷大河原に鎮座」「生駒壱岐守高俊様御入国之御八森へ御陣屋建築に付城内村に遷座」とされている。愛染明王社は金剛院修験が奉仕するように、延命息災や敬愛のために加持祈祷をする信仰が高く、修験道では重要視されて崇拝されるものであった。「分限帳」にみる限りでは神明宮に次いで祭禄も高く六俵に預かっていた。このように神明宮と並んで「当国総鎮守」とするだけに、その信奉も篤かったと思われる。しかしながら、幕末戊辰の役によるこれらの社堂が烏有に帰すことになると、その後神仏分離の令もあってか、愛染明王社はかなり縮小してしまったらしい。現在、舘町愛染講中の人びとのよって祀られているのがそれである。反対に神明宮はその総鎮守格を近代にも引き継いで、信仰の多少の盛衰は否めないが、従来の八朔祭は矢島領内における大祭として行われてきた位置づけは替わらなかったのである。祀職家は元修験千手院井岡氏である。 |
『舘町記録帳乾』にみえる明和9年の御神輿新調の記事では、舘町、田中町の二丁で鄭重に御神輿を扱いながら、「八月朔日朝七ツ新丁弁天様に御下り夫より七日町田中町御家中新町舘町相廻り金剛院へ御入り初めての事故御行烈内習等殊のほか賑々敷き事に御座候」とある。八朔祭の御神幸に御神輿が下ったことは当然だろうが、これは現行のように宵宮祭日ではなく、当日の朝早くであった。ここで「初めての事」ゆえ、としているのは一体何が初めてであったのか、同文書からは、田中町、舘町はもとより他丁にも広く神幸を繰り広げたのか、または金剛院へ入ったのが初めてであったのか、いずれとも判断がつきかねる。それでも、本収録の第一章で明らかなように、八朔祭の所見資料によれば元禄15「年(1702)には祭礼が行われていたのであり、この時点で御神輿の神幸がなされていたかどうかは記載がないにしても、後の記録からみて恐らく御神輿の御巡辛はあったと考えられるが、ともかく御神輿の新調を祝うとともに特別に賑わしい祭礼であったことがうかがえる。してみれば、神明社が、このように領内総鎮守格として崇敬されてきたのは、領主生駒氏の庇護が強くあったといえよう。『親睦公御入部日記抄』によると安永9年(1780)の記録からは、8月19日矢島に入部した後、28日には「五ツ半時神明愛宕御参詣」とあり、これが矢島に入部時の恒例とされていたらしい。ただ、慶応4年には戊辰の役にかかり、神明宮、愛宕明王社など元禄10年の絵図面にみえている城内の社堂のほとんどが焼失してしまった。神明社はその後に間もなく向山(現鎮座地)に遷されて復祀したのである。 「矢島郷別当復飾之控」には、「城内所皇山神宮寺実相院」「代々神明宮別当に御座侯へども、前書の通り焼失に而、其次第不相分、但愛染明王両杜当国の鎮守に而、去四ケ年前卯年迄、年々無怠慢祭祀仕来侯。当国随一之祭祝に御座候。昨年御一新御趣意以来、昨年両年は神明宮一社而己祭祝仕侯」とあり、「当国随一の祭祝」とするは矢島領内において最大の祭礼であるこの八朔祭を意味するのであろうに違いない。これらから、近世では総鎮守格の神社が神明宮と愛染明王社であったが、そのうち神明社の祭礼として八朔祭が最大として行われてきたのであるといえる。神明社の祭礼はそれだけに領内の信仰を集めてきたに違いないだろう。 |
『親睦公御入部日記抄』には、佐藤津守が「初めて御入部御祭礼奉行仰せ付けられ侯に付き」とか、「両社御祭礼に付例年之通り御神輿通行並御行列相廻り侯に付表御門内へ入らせられ御覧遊ばされ候」というように、神明宮と愛宕明王社の祭礼には必ず御神輿が神幸することも知られ、その際に生駒氏の陣屋にもよることが通例であったことが読みとれる。『親愛公代御在所御用部屋日記』天保4年(1833)八朔の記事には「諸士一統勝手次第に御礼申し上る」としているから、祭礼の祝いに挨拶をすることもあったか、「巳之刻御神輿御通行」「御跡乗井上金吾」とするをみれば、武家においてもこの祭礼に深く関わっていたことが判る。勿論、安政3年の「御神輿御行烈帳」にある所役には下級武士の御徒士衆はもとより、それ以外にも武家の名が多数みえていることでも解る。もっともさらに、領主である生駒氏の神明社に対する崇敬からも、神明信仰と結びついていて、八朔祭礼が成り立ってきたものと考えられる。これらからみれば八朔祭は官祭であったといえるのではなかろうか。即ち、『親睦公御入部日記抄』によっても、安永9年8月28の条には佐藤津守が「祭礼奉行」というものを仰せ付けられ、裃一領が下賜されているのをみると、それもまた八朔祭礼ばかりでないだろうが寺社奉行というのではなく祭礼奉行というのだから、領内随一の祭礼である八朔祭を主とする所管でなかったかと思われる。 |
生駒氏が矢島に初めて入部したのが安永9年8月19日で、八代親睦とされる。繰り返すまでもないが「御入部日記抄」には、この年は八朔祭は日延べされ9月2日に行われて、御神輿は大手門から陣屋にはいって生駒氏が玄関の式台に出て拝したとあり、さらに祭礼奉行に家臣を任じている。この日はまた神明社境内で余興の狂言や相撲が催されたので正式に見学に出向いている。その後にもまた、国入する宿割りの飛脚が来ると祭日は着城に合わせて決めるのが恒例になった。このように、八朔祭が生駒氏の庇護のもとに威儀をただして行われるようになったらしい(佐藤周之助稿「矢島の八朔まつり」/昭和48年9月/矢島町観光協会)といわれる。生駒氏がこのような八朔祭を庇護していくのにはそれ以前の、即ち讃岐領時代にも八朔祭礼に関係していたことが推定されよう。しかし、讃岐(高松市)では、神明社のような八朔祭礼は見あたらないようである。ただし、民間では馬節供という風習が西讃地方にあったことが判る。『やさしさの歳時記』(魅力ある高齢化社会をつくる香川の会編.発行/平成1年1月)には、旧暦八月一日には男の子がいる家では米の粉でつくった団子馬を飾って祝った。長男誕生となると祝いも盛大で、親類や近所から武者人形や大きな団子馬が贈られて、酒宴をする。馬節供はこうして八朔武者人形や武勇課のある人物人形を並べて飾り団子馬を供えて祝う男の祭りである。翌日に団子馬を切り分けて親類や近所へ配る、とされる。それでもこれが直ちに生駒氏が転封によって矢島へと影響を与えたかといへば、少し無理がある。本来は、これまでの事例からしてみれば、八朔は農民のあいだの行事が武士の社会に入って贈答の風習が生じたと考えられるのであり、贈答の内容が生活に身近な馬や太刀が主になり、さらにその影響を受けて馬節供の呼び方が示すように、シンコ細工の馬の贈答に風習が生まれていったとみるべきであるから、その上では讃岐地方の文化移入や影響というのはこの場合は認められないだろう。 |
八朔祭が武家にとっても極めて信仰深いものであったのは、諸誌によるところでもあり、鎌倉時代以降武家や公家の間にも八朔贈答の風習が浸透しており、武家では馬や太刀が進物品とされていたこと、さらに天正18年八朔の日に徳川家康が江戸入りしたことに因んで、諸大名も白帷丁姿で登城したことにもよるという。江戸幕府では八朔祝儀といって正月に準じた盛大な祝いを行ったことがいわれているC八朔の節日が特別な意味をもっていたことは、年中行事を書き留めた寛文2年(1662)板行の中川喜雲著『案内者』(一続日本随筆大成』別巻民間風俗年中行事上所収/昭和58年6月/吉川弘文館)に明確に記されていて、「八月朔日」「ある説に、公事也、田面の節会とて、そのかみは早稲の焼き米を諸国地頭の本より禁中に奉りしと也。中手・奥手田も、此ごろは穂並花咲て、科戸の風も静ならん事を、上下ともに祝まつる節なれば、猶武家には領田地方の満作、西収の祝をなし、主君の拝礼をおもくする也ともいへり」とある如く、近世初期から既に広くこの見方はゆきわたっていたと考えられるから、武家がその領地田畑の五穀豊穣を祈るもので主君にあっても信仰の賜とすることが習わしであることを述べている。上下ともに祝うというのであれば貴賎の区別なく、この日の祭は決して欠かすことができないものであったといえる。矢島生駒氏領、その家臣にとってもこれは同じ事がいえるのではないだろうか。要するに、矢島においては八朔祭を神明社の祭礼として、領主、武家、領民(農民)さらに工商人まで含めて一丸となって祭ることが、次第に受け入れられていったのであろう。その意味から、矢島の神明社八朔祭は武家社会にも享受されていたし、勿論本来の民間での信仰もより深い面のがみられるといえるのである。 |