第三節 神明社八朔祭の信仰
 
1.稲作農耕信仰と八朔祭
 矢島の神明杜は文字通り神明信仰をもって崇敬せられてきたものに違いがない。明治6年に郷社に列したとされるから、地域の尊崇も高いものであった。荒井太四郎著『出羽国風土記』(明治17年)によれば、「神明社は天照皇大神を祭り矢島町字向山に鎮座す往古より城内字水上に鎮座し同村の産土神なり寛永17年8月生駒家其地に遷封以来領地守護神となして毎年八月朔日例祭あり士民挙て尊敬せり明治元年八月兵火に罹り社殿神輿等残りなく灰燼す同4年11月更に向山に社地を撰み仮殿を建て遷座せり同6年9月郷社に列す」「仮社殿一間四面社地六百十三坪氏子五百三戸」とある。仮社殿は無理もないことで、一間四方の小さなものであったが、この後『神社明細帳』(大正3年)によると、明治40年に神饌幣吊供進神社に指定され、明治43年には七日町村村社稲荷神社をはじめ6社の合祀、さらに45年には前田表の村社神明社他14杜、大正2年には10社3年には根城館村社八幡神社他3社の合併があったことが載せられる。この大神杜合祀は郷社格の神明社であるから、郷とはもと前郷八村即ち七日町・荒沢・須郷田・九日町・荒町・新所・小板戸(『出羽国風土記』)を意味すると考えられるので、当時官政にあって神祇制度上已むを得ず、前郷のほとんどの神社を合祀したのであろう。明細帳では再建のことが記載されていないが、神明社蔵記録『郷社神明社祭典録』(明治34年)には、明治33年に拝殿の再建にかかり、これと同時に神輿の新調と神庫の建立を行うとし、神輿は34年の新暦十月上旬に竣工し、拝殿と神庫は翌35年の祭礼時までに竣工が予定されたのである。そして、昭和3年に再び現在の社殿建築が進められた、という。神明社がこのように郷社となるのには矢島総鎮守とされた歴史があったからといえる。
 ところで、神明社の信仰をみておかねばならない。神明というのは二義あって、ひとつは神と同義で六国史にその用例をみる如くであり、今ひとつは天照大神を指し、天照大神を祀る神社が神明中の神明であることから発している。即ち、神明社は中世後期から近世前期にかけて天照皇大御神を祀る伊勢の神宮の神徳が、広く衆庶に普及するにつれ、演繹的にその御分霊を奉斎した社を一括して神明社というようになった(三上左明稿「神明社に就いての一考察」/『歴史地理』第55巻第4号/昭和5年/歴史地理学会)としても、やはり衆庶の信仰はその農耕神としてのものが強いであろう。川辺字砂子沢に「大大神楽奉納紀念証」(佐藤彌次右衛門家蔵)がある。これは「矢島杉沢村伊勢講中」にあてられた記念証であるが、「伊勢太神宮大大御神楽」「寛文十一年ヨリ明治二十四年二至二百二十一年ノ五月吉日閲旧記」として、「謹書三日市太夫次郎秀氏」と署名墨書のうえ花押がされたものである。矢島地方では一帯に伊勢信仰が根強く普及していて、平成6年の調査矢島町郷十史研究会他「矢島町各種講調査」)によっても、この時点で現存するのが49集落中26集落にあり、一集落に三講が存在しているところもあるほどだ。由利郡一帯でも同じことがいえ、いかに沢山の伊勢神明信仰が普及しているかが知られる。神明社の創立と展開についてはこれら伊勢講中における神明信仰と無関係ではない。近世における新田開発によって創立した神明社が極めて多く、それは神明信仰の主たる農耕にある稲作信仰と密接な関わりがあることことが指摘できる(齊藤壽胤稿「神明社創立考(上・下)」/『秋田民俗』第四号・第五号/昭和52年3月・11月/秋田県民俗学研究会)。この紀念証によれば、杉沢の伊勢講中が明治24年に参宮をして、それが大大神楽奉納と祈祷をしてもらうことであったし、また御祓大麻を戴いてくる代参でもあったかは判らないにしても、いずれ御師三日市太夫次郎宿では古記録を参照して、かつて寛文11年に杉沢伊勢講中が参宮をしていることを証明しているものである。これだけでも近世には神明信仰が深いものであったかを知ることができるが、『矢島町史』(矢島町史編纂委員会/昭和54年12月/矢島町)にある「参宮道中記」をみると、生駒氏領民は帰途に必ず生駒氏江戸屋敷を訪れたものとみえ、宿泊をもてなされている。生駒氏のこうした接遇は、生駒氏が矢島の領内にもどったときには必ず城内の神明杜に参詣をしていることからも、領民の神明信仰においても決して憚るものではなく、むしろ推奨すべき篤志であったとみられまいか。一般に明治以降に列格とされた神社であっても、由緒を質せば歴史も古く、崇敬も篤く、それに為政者とか有力者の崇敬と庇護がみられるものが多い。その中で神明社では郷社格以上のものはこの矢島をはじめ、大館、角館、横手、湯沢、比内などがあげられる。それに秋田市土崎は湊総鎮守の神明社で県社に列格されていて、このようにみると古来より発達した政治、文化、経済生活上でも極めて要地にあることが判り、当然領主はじめ為政者の拠点としたところである。とすれば、「この拠点地における神明社の存在は隆盛の一途における神明信仰の現れとも考えられようが、むしろ時の権者、為政者が政治的意図をもって奉斎してきたのではないか」(齊藤壽胤稿「神明信仰考-秋田県におけるその展開」/『瑞垣』第124号/昭和56年8月/神宮司庁)と指摘されよう。してみれば、生駒氏もこの神明社の八朔祭を極めて盛行させるのは、潜在的には領民の撫育にもあたり、それは米経済の社会にあって豊饒を祈る最高貴神の信仰に通じていたとみることができるのである。杉沢の伊勢講中にある文書にみえる三日市太夫次郎家は、この地方の講中を掌握した伊勢御師である。しかも三日市太夫次郎は外宮御師であることが知られる。神宮というのが内宮と外宮に分かれていて、その両宮を指して総称するのであるが、特に外宮の祭神たる豊受大神が食物の神ということから、ひいては農業の守護神として崇められるという事情が、外宮御師の信仰普及と相侯って、深く地域の信仰に浸透していたものとみられる。勿論、天照人御神の神格としても農耕神的存在があるのだが、神明信仰の背景には当時の人心のよりどころとして、種々の祈願の統合とした意味がうかがわれるのである。これらは矢島の神明社に対する信仰とその氏子の関係では決して差異はないものであろうし、むしろ領主も特別の崇敬する神明社の祭礼である八朔祭においてはさらに信仰的な意味が深まるものであったろう。
 八朔祭というのは各地の民問信仰からもその起源を農耕信仰に依拠していることは述べてきたとおりである。この矢島においては神明信仰と見事に結びついて、八朔祭というのが長く続けられてきたのであった。
 

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