新丁というからには恐らく新しい町であるに違いないが、古くは田中町に属していて、文化年間以降に新丁を名乗ってきたようだ。明和8年の記録(『舘町記録帳乾』)に「新丁」の名がみえているから、この頃は新丁の名乗りが認められていたのかもしれない。しかし、丁とはいってもあくまで田中町分に組み入れられてきた時期は長いのであった。宇賀神社の御神体による宝暦12年(1762)正月の銘があるからには、丁としても神社も、この時には既に存在していたと思われる。明治43年の神社合祀による時点では、宇賀神社を郷社神明祉に合祀した(『秋田県神社明細帳』/大正3年)とある。昭和21年以降に復祀したものとみられ、現在も新丁の氏神として祀っている。鎮座地は遷座の伝承も聴くことがないので、推してみれば創始以来の鎮座地であろう。しかしながら、新丁が独立した一丁として八朔祭に加わるのは昭和21年以降のことであるから、しかも神明社の氏子として正式には関わっていなかったのであるから、ここを現在のような御旅所とするのはいつ頃のことかは明確でない。田中町がもっとも古い生駒氏領以前の町として、この町の権威は並ではなかったであろうし、早くから田中町が八朔祭礼に氏子として関わってきたのであるから、田中町分の新丁まで渡御巡辛することはあり得るべきことだろう。そうであったにしても、肝心の八朔祭の御神輿お旅所としてきた新丁の宇賀神社については具体的ではなく、資料に係るところもなくて知ることが少ないのは遺憾である。今後の調査に委ねるほかはない。 |