3.宇賀神社と八朔祭
 新丁にある宇賀神社は通称弁天さんと称されてきた。
 宇賀神社の祭神は倉稲魂神であるが、俗に弁天さんと呼んでいる。宇賀神は仏説による白蛇神という福の神である天女を引いては弁財天に付会されたものである。倉稲魂神は保食神(女神)とも習合して、やがて稲荷神そのものもとも相通じるようになる。稲荷神としても、倉稲魂命としても穀霊神の神格をみいだすことができることから、豊作豊饒を司どる神と信仰され、やがて商業都市では富貴自在を祈る栄華利益を得るものとされた。
 新丁というからには恐らく新しい町であるに違いないが、古くは田中町に属していて、文化年間以降に新丁を名乗ってきたようだ。明和8年の記録(『舘町記録帳乾』)に「新丁」の名がみえているから、この頃は新丁の名乗りが認められていたのかもしれない。しかし、丁とはいってもあくまで田中町分に組み入れられてきた時期は長いのであった。宇賀神社の御神体による宝暦12年(1762)正月の銘があるからには、丁としても神社も、この時には既に存在していたと思われる。明治43年の神社合祀による時点では、宇賀神社を郷社神明祉に合祀した(『秋田県神社明細帳』/大正3年)とある。昭和21年以降に復祀したものとみられ、現在も新丁の氏神として祀っている。鎮座地は遷座の伝承も聴くことがないので、推してみれば創始以来の鎮座地であろう。しかしながら、新丁が独立した一丁として八朔祭に加わるのは昭和21年以降のことであるから、しかも神明社の氏子として正式には関わっていなかったのであるから、ここを現在のような御旅所とするのはいつ頃のことかは明確でない。田中町がもっとも古い生駒氏領以前の町として、この町の権威は並ではなかったであろうし、早くから田中町が八朔祭礼に氏子として関わってきたのであるから、田中町分の新丁まで渡御巡辛することはあり得るべきことだろう。そうであったにしても、肝心の八朔祭の御神輿お旅所としてきた新丁の宇賀神社については具体的ではなく、資料に係るところもなくて知ることが少ないのは遺憾である。今後の調査に委ねるほかはない。
 ところで、この宇賀神社を八朔祭で御神輿のお旅所としてきた理由はなんだろうか。案ずるところを述べれば、それは多分祭神に関わることなのであろうと思われる。即ち宇賀神社は保食神としても倉稲魂神としても、八朔祭の根底にある穀霊の信仰に通じるものがあるからに違いないし、保食神とすれば神宮の外宮祭神が豊受大神でこれを保食神ともみなしてきたことを考え合わせるならば、神明社の祭神天照大御神を内宮と祭神として、外宮に見立てて渡御するというのではなかっただろうか。八朔祭の神明信仰が必然的にこうした氏子との関わりをもつことにより、深く浸透せしめてきたとも考えられる。

新丁宇賀神社

御神輿御下がり 御旅所祭(宇賀神社)

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