2.各丁内神社
 氏子六丁はそれぞれの丁内鎮守社を持つ。八朔祭は神明社の祭礼であるが、この氏子はそれぞれにまた丁内鎮守を持ち、維持してきた。いわば二重氏子であるが、郷社格である神明社であればそれはあり得ることだが、祭礼が当番丁によって仕切られるのであれば、その母胎となる丁内の鎮守との関係も無視できないだろう。例えば、神楽の獅子頭が丁内の神社に安置されていたり、この神社がかつての祭り宿となったりしたのである。それらの関係をここではみておきたい。
  田中町は秋葉さん。即ち秋葉神社を祀る。田中町が外町としては一番古いといわれ、文禄年間(1592〜)以来丁を形成していたが、寛永17年(1640)生駒壱岐守領となって八森に陣屋がおかれ、人家が増えていったとされる。正規の町割によって田中町が形成されたのは生駒氏領となってからと推定されている。ここには呉服太物の家督を持ち、その他の特権も有していた。薬種商人もいたなど、田中町はさまざまな商人町を形成していた。

丁の規模は文化14年(1817)の「切支丹宗門人別御改帳控」では家数89軒、人数358人となっている。秋葉神社は祭神迦

田中町秋葉神社獅子頭

具土神(火産霊命)、祭日は4月18日であるが、今は神明社境内に小堂を遷し神石が祀られている。秋葉山という社号額は「菅原公御筆文久3年(1863)4月」とあるもので厨子に烏天狗の神像を祀る。丁内鎮守はこの小堂をもって氏神社としてきた。仙台藩の熊谷新右衛門が天保8年に矢島を訪れたときの書き記した『秋田日記』(熊谷新右衛門著・伊澤慶治翻刻/1984.6/無明舎)には、4月18日が「当所は秋葉山の御祭礼にて夕方より大賑々敷町切の取り仕かけ物横あんとう地口あんとう軽業踊狂言江戸下り芸者有之侯夜まっり大にぎやかなり筆紙に尽くしがたく侯」とみえるから、この頃の祭礼がいかに盛大であったのか判るもので、神社は御本陣の前に鎮座していた。
 秋葉さんにはお日待ち講があり、上・中・下の三講中でそれぞれ1月、10月、12月の17日に講会が開かれている。講中ではそれぞれ掛け軸を所有して、上組では特に安政3年(1856)のものがあり、この地域の秋葉信仰とお日待ち講の古さを物語っているであろう。神社の御神体と獅子頭は神明社に安置保管され、祭日の時はこれらを田中町会館に遷して祭式を行う。八朔祭の神楽屋台に安置されるお頭は、この時に会館に遷されるだけとなっている。
 舘町は愛宕西宮神社を鎮守として祀っている。通称、市神様と呼ばれていて、愛宕大神と蛭子神を祀る。4月24日が祭日。女の人びとでつくられている講中があり、旧暦4月の願掛け、旧暦9月24日はオリョウ願果たしという講を開く。また旧9月23日はお日待ちといってこの日も講がある。男の人びとでは11月20日をえびす講といって集まり、神社で祭りをしている。「合殿略記」によると、文久3年(1863)正月「御日待御祭礼当番の宅にて御祈祷修行いたし侯節愛宕山の御神影これ無く侯に付き鳥居講中申し談じ同23日御神影の掛物一軸寄附仕り侯」とした、掛け軸を什物としている。市神様の鰐口といわれているものもあり、この銘には「文久三年四月」「愛宕山蛭子宮」とみえる。一般でも24日は愛宕神の縁日で、蛭子神は20日を縁日とするから、この両方が男女の講に分けられてきたのだろう。町の規模は文化14年(1817)の「切支丹宗門人別御改帳控」では家数61軒、人数248人となっている。生駒氏の転封以来、町割されたといわれ、かつては陣屋に尻を向けることになるといって陣屋側には人家を建てなかったという。『矢島町史』には元文6年(1741)正月の「盆市願上」文書がとりあげられているから、この頃に舘町の市を盛り上げようとしたことが判り、市神はこうした信げられているから、この頃に舘町の市を盛り上げようとしたことが判り、市神はこうした信仰を反映しての鎮守とみられる。愛宕大神は火産霊神として明治6年に造したとされる木彫馬乗武神像を祀る。

舘町愛宕西宮神社

愛宕西宮神社の獅子頭

 蛭子神は所謂恵比須神像でこれを神体として祀っているものである。そこに、八朔祭の神楽に祀られる獅子頭はこの神社に安置されている。八朔祭の他に例祭日の24日には、子どもらが祭礼にあたって獅子頭を棒持して丁内をお祓いして廻る行事もみられる。
 七日町稲荷神社は、倉稲魂神を祀る。ここの神社はかなり複雑である。『七日町丁内史』(今野銀一郎稿/平成5年3月/七日町丁内)によると慶長17年(1612)の「由利郡中慶長年中比見検地帳」に村名があり、宝暦8年(1758)の「御領分中覚書」では家数74軒人数273人、とみえる。この文書には「千手観音座像也別当明王院」として、「七日町はづれ小坂下りて登れば右脇組金仏御長ケ六尺七寸五歩…」、さらに「先年無堂なり風雪にて損し候故御堂建立拝殿は御上御建立御祈
祷所十社の内御祭礼三月十七日…」という、観音堂と呼ばれるものが七日町の守護堂とされきたのであった。観音座像の銘によれば正徳元年(1711)に鋳造された仏像であることも判る。尚、別当明王院は、「羽後国由利郡七日町村誌」(明治10年代)によれば、城内福王寺末の真言修験宗徒で、明治初年に復職し真言僧侶となった。観音堂は近世神仏習合時代にはこうして七日町の鎮守的存在であったが、近世初頭の神仏分離もあって正式な神祉を氏神とする必要もあった。明治5年の「規則」(佐藤金之助所蔵文書によればその経緯が詳しく、「天朝御一新に付神仏混清の儀御布告に相成湯殿山観世音廃され侯」「之に依り祭礼もいたしべき様も之無侯」を憂えて、辛いと「当丁内姥ヶ坂南之方古代稲荷大明神宮社之有る所漸く頽破当時宮社形之無候。右稲荷大明神今般一村崇敬之神に願立」てしたのであった。 七日町稲荷神社(川代観音堂)
稲荷神社獅子頭
しかし、観音堂と稲荷神社をすり替えたのではなく、「旧地清浄に仕り観音境内江引移し接界に候得ども界正しく相立ち些卿も混淆仕まちらず且双方故障の儀之無様遣し置侯」「内意は川代山観世音菩薩表向は稲荷大明神崇敬之心底」としたものであった。要するに観音堂も存続し、新たに稲荷神社を境内に遷して鎮守としたのである。この稲荷神社のそもそもの創祀は不明だが、古代というのは些か誇張しすぎであって、現在観音堂正面にある元治2年(1865)の稲荷鳥居や、境内に祀る文化8年(1811)の稲荷碑がそれにあたるというから、稲荷神社をこれとすれば近世中期には祀られいたものと考えられる。「七日町村誌」には稲荷神社雑社とみえ、「社地東西拾九間三尺、南北拾壱間三尺、面積七畝十四歩、本村内にあり。倉稲魂命を祭る。旧暦3月17日を以て祭日とす。社内桜樹森々として開花の侯観客群集す。本村の一勝地なり」とみえる。明治30年には観音像の宝冠(像頭部)が草窃(盗難)に合い、後また火災によって堂が焼失したという。祝融は稲荷神社も襲ったものであったか、明治34年旧3月16日に観音堂の再建による入仏式があり翌日は稲荷堂遷宮式が執行されている(『七日町町内協議録』/明治29年以降/七日町蔵)。その後、『協議録』(七日町丁内・明治41年以隆によれば、明治43年2月10日の協議では「村社稲荷神社を郷社神明社に合併するの件、秋田県知事より許可、23日祈祷を執行、24日遷宮式を行うことに決定す」とあるから、『神社明細帳』(大正3年)にもみえる神社合祀があったことがはっきりしている。それでも現在は観音堂拝殿の右上には稲荷杜の神棚を祀ってある。観音堂は実際には観音・千手観音・不動明王を安置する。そして併設されているのが慈眼閣という集会所である。慈眼閣にも神殿がありここには大国主大神が祀られる。祭日は2月初午日と4月17日である。いずれも観音堂で祭式がある。八朔祭では当番丁若者が神楽の出陣式をこの観音堂で神官から拝んでもらってから出発することになっている。七日町の獅子頭は慈眼閣の大国主大神社に安置していて、この八朔祭以外では出現することはない。しかし、明治45年の川代山観世音入仏二百年祭不動尊御日祭にあたっては獅子舞を依頼している(「協議録」)など、特別な祭礼には獅子権現の出現があり、お頭の信仰がされてきたことが判る。その他、八朔祭において御神輿の巡幸沿道に盛り砂をする風は、明治34年の稲荷遷宮式においても「盛砂仕るべき事」(「協議録」)とみえるように、渡御においては必ず行った風習であるといえる。
 新丁は宇賀神社で、八朔祭の神輿がお下りになるときに、御旅所となる神社が宇賀神社である。ここが一番関わりが深いということになろう。通称弁天さんと呼び慣わしているが、祭神は倉稲魂神である。由緒については知るところが少ない。創祀は不明であるが、御神体は宝暦12年(1762)正月と記された「奉開眼大辮才天」「龍因遍法印」とある像を祀る。神社の懸額には明治20年の銘がある近松永和の俵藤太百足退治の絵がかかげられている。祭日は5月1日で、1月、6月、9月、11月の末日には御日待ち講が開かれている。八朔祭のお神楽に安置される獅子頭はこの神社にはなく、荒沢の若宮八幡神社の獅子頭を祀ることとしている。  新丁宇賀神社
荒沢若宮八幡神社の獅子頭 城新の獅子頭 村上別当家蔵獅子頭
 城新では不動明王碑を祀る。古くは新町といった城新の南西に、旧御家中に至る坂があるが、この民部坂という中ほどに滝があり、ここに石神不動尊を祀る。城新は片町といって、かつては道路の生駒氏陣屋側には家を建てなかったもので、片側だけの町並みが続いたものであった。この不動尊を城新の氏神としてきた。堂宇はなく石碑神を祀るために4月28日の祭日は城新会館で祭式を行う。安政6年(1859)12月の銘がみえる。獅子頭は城新会館に安置され、八朔祭の神楽に祀られるのみで、不動尊との関わりは全くない。
 水上では神明社境内にある御獄神社を祀る。宝暦8年(1758)の「御領分中覚書」には「城内村田中町後御獄別当千手院」とあり、元修験千手院井岡氏が別当を勤めた社で井岡氏は現神明社宮司家である。神社は小祠一殿造りで、厨子内に木彫の神像を祀る。祭神を日本武尊としている。他に三猿と一鶏の木彫り像か安置されていて、裏に「日枝神社用」とあるが、何の関わりかは不明である。水上では獅子頭を保持しないために、水上の村上別当家より借り受けて神楽獅子としてきた。
 このように各丁の鎮守社や獅子頭をみるならば、各丁の成立ともに鎮守社もみられ、八朔祭の古い時代の氏子関係をもっていた丁内ほど鎮守社との関わりも深いし、獅子頭もその神社ともに祀られてきたことが判る。
 

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