第二節 八朔祭祭礼伝承の周辺
 
1.神明社年中行事からみた八朔祭の位置付け

 神明社の主な年中祭事をあげてみると
   正月元日     歳旦祭
   3月17日     祈年祭
   9月第2土曜日曜日   八朔祭
  11月23日    新嘗祭
 である。このうち、八朔祭は神社年中祭事でも最大の祭礼である。

矢島神明社社殿

 八朔祭と言い習わされる神明社の祭礼は、実は神明社の大祭でもあり例祭ともされている。一般に春秋の神社神事は、春の祈年祭、秋の新嘗祭の位置づけがされるが、その他に例祭もある。特殊な祭礼を伴うこともある例祭が、特色ある祭事であればあるほど、神事よりも神賑行事部分の祭礼そのものだけの意味が強調され、例祭という本来の神事的な要素の意義が薄れてしまうことが多い。こうした例は秋田県では天王町天王の東湖八坂神杜の祭礼でもみられる。東湖八坂神社では年中で凡そ二四以上の神事が行われそのうち中心となるのが牛乗り蜘蛛舞神事というもので、この時に神輿の巡幸がなされる。古くから例祭という祭式はみられなかったもので、特殊神事といわれるものだけで年中祭事が構成されているのであった。神明社における八朔祭というのは例祭に代えられるものであった。神社の祭祀が季節の変化とともに密接な関係にあることはいうまでもないが、逆に祭りが季節の折り目であったといえるだろう。例祭が主として神杜の鎮座や祭神の由来に因むものとした恒例の祭事ではあるが、それとは別に八朔祭が、この矢島という独自な風土と歴史に支えられてきているときに、八朔日における祭礼が神社の年中、神事上において古暦のうえでも穀霊をまつる最大の祭祀として発展してきたとみられるのである。
 八朔祭の祭礼を担う氏子は神明社のある水上から、新丁、舘町、城新、田中町、七日町ということになっているが、古くは舘町と田中町の二丁であった。八朔祭礼は近世期にも規模が大きい祭礼であったらしく、二丁が毎年交互に当番丁を担ってきたとされる。しかし、その後明治になり七日町と城新(当時新町という)でひとつの丁として、ここで三丁の統前(当番)制となった。これがのちに七日町と城新がそれぞれ独白に統前をひき受けるようになり、現在の統前はこの四丁の年番制となっている。水上、新丁は若者衆たちによる曳き山車を出すことに加わってきたのが昭和20年代であり、それまではなかった。水上は今、神明社が鎮座する地域だが、これは神明社が近代に水上というところに遷されたからであって、この二丁はかつてはいずれかの丁に組み込まれていたか、あるいは関わっていなかったかもしれない。後に加わった二丁が近代に次第に人家も増えてそれぞれ独自に一丁をなすに至る過程において、若者衆も氏子として曳き山車を奉納するだけの存在があったとしたのだろう。このようにして、六丁が次第に神明社の氏子として成り立ってきた。水上、新町が統前とならないのは、かつての丁の成立事情によるものとみられ、さらに丁規模の問題もあるという。ともかく、現在は氏子は六丁で年番は四丁ということである。当番丁を勤めることのない二丁であっても、それ以外については各丁とほぼ同じ役目を担っている。例えば氏子総代もこの丁から出されるし、全氏子による普請や祭礼の準備などにも係るのである。祈年祭、新嘗祭も勿論当番丁が年番によって担うことになっている。
 さて、八朔祭礼には約1月前から打ち合わせの会議や準備によって行われていく。当番丁ではまず諸打ち合わせから始まり、独自に当番丁内の若者会議、次に各丁では合同会議、若者衆総会議、六丁総会議、神明社役員他での祭礼にっいて協議をするなど、相当数に及ぶ会議、打ち合わせがあって、全て六丁が何らかに関わりをもつ。当番丁では祭礼にあたっての全般の責任をもって運営することになるが、特に御神輿の巡幸に関すること、祭式に関することを主として担う。各丁の若者は若者衆で、曳き山車の山車や神楽屋台の製作組み立て、軒花などの製作、さらに仮装の準備、仮装芸能の練習、神楽の伝承など、かなりの準備や作り物がある。したがって、長期にわたって準備が整われていく。
 ところで、八朔祭のおける山車とか付け物を含めて、神事並びに信仰に関わる部分を抽出してみておく。主として、神楽、曳き山車や仮装といわれる奉納芸能に関しては若者衆が行うことになっている。若者というのは若衆、若者、青年会、など丁内によって呼び方が異なるが、男子数え年42歳までの者で構成される。舘町では近世までは若者、そして若衆、青年団、さらに青年会と名称が変わっていったとされる。現在は若者から抜けて55歳までの人が与力として若者衆に援助する組織もある。従来よりこの若者衆の祭礼に関わることはかなり重要な事柄であった。若者衆の先にたつのが若者頭で、絶対の権限を有し、統率力、権力を保持するものである。これら若者衆が行うひとつに軒花がある。
 軒花に注目をしてみると、軒花とは、花形にくりぬいた色紙を竹棒に付けて作った花で、丁内によって短冊を付けたり花の数が多かったりなど、形状は多少差異がみられるが、これを宵宮祭前までにそれぞれの丁内各戸に配る。この時に、奉加金を受けるのであるが、これに対してまた若者衆からのお礼品が渡されるのである。軒花は、その名のとおり軒につけて飾る花であるが、これを飾るといかにも祭礼時期を意識させるともいう。軒花を配る、軒花を飾る風はいっ頃から何のためにできたのであろうか。祭礼のためにこうした花を配る風習は、山形県遊佐町鳥海山大物忌神社蕨岡ロノ宮における大御幣振祭で矢島での若者衆が配る花とほぼ同様な作りの花を配る例がある。大御幣振祭に神宿での祭式後に参列者に渡すものだが、他に秋田県内ではほとんどみられないことだ。この軒花、花とは何かといえば、蕨岡ロノ宮でいえば花は神棚に供えて豊作の予祝として斎うことになるとされるから、恐らく八朔祭の軒花も、稲の花または稲穂に見立てた予祝的な飾り物であったと思われる。象潟町の金峰神社祭礼で舞われる延年チョウクライロの小児ノ舞では花笠をつけて行うが、舞い終わると参列者はこの花を奪い合ってもらい受ける。花笠の作り花は、やはり神棚に納められ、豊作の護りとするというのであった。これらにも類すると考えられる軒花には、八朔祭の本来的な信仰にも同化するものがあったからこそ続けられて、奉加とする初穂料をも奉納することを難なくなしてきたのであろう。 この祭礼における宵宮祭への比重は高い。それも、お下りという御神輿が御旅所までに巡幸することが一番賑わしいのである。安政3年(1856)7月の晦日、つまり八朔の前日にあたる記録の「御神輿御行烈帳」(大井益二家所蔵文書)によっても、御神輿の神幸行列による諸役氏名があげられ、関わった人数も相当数に及ぶことが記されるなど、いかにも仕立てが盛大であったことが判る。これは宵宮祭の渡御行列であることははっきりしているが、次の日当日も同じように渡御が組まれたかは定かなことではない。しかし、想像するに今日にみられるような宵宮祭のお下り渡御に比重がおかれたのは否めないだろう。夜景色に包まれながら神幸するお下りには、神楽がつき、御幣を奉持し、御紋付灯籠に田楽灯籠、ほおずき灯籠、旗指物など携えて行列して巡幸する様に、奉拝する一般氏子もこれに参加をあこがれる者が多かったという。お下がりというのは神社からお出になるということもあるが、実際に神明社がこの地域では住家地より一層高いところにあり、御旅所まではまさに坂を下っていくという地形的なことからもそういわれるのであろう。因みに神社の鳥居下はお御坂(みさか)というように坂状になっていることでも判るであろう。
 御神輿についても一言触れておかねばならない。それは御神輿を担ぐ役目の人をお託宣といったことにもよる。御神輿担ぎ、または直接御神輿に関わる役にお託宣いうところが他所にあるのか、管見にして知らない。このお託宣という御神輿担ぎの祭役がどういう意味をもつのかを考える前に、神明社の御神輿が『舘町記録帳乾』(大井益二家所蔵文書に明和9年(1723)の記事があって、「六月十一日御神輿御下り塩越迄両町人足にて御迎えに行き両町親方衆組頭中残らず八坂迄御迎えに出尤も金子文之進様御出で土屋吉兵衛宅に御神輿搬入則十三日に吉兵衛方より神明様へ御入れ、此節愛染様拝殿にて金剛院加持有り夫より神明様に御移り遊ばされ侯」とあるをみると、御神輿がどれだけ鄭重で貴重な扱いをしたかが判るというものである。御神輿は御神霊を奉安するのであるから神社本殿と同じく尊重さは至当のことだが、祭礼のあり方にも関わっているからは信仰も介在するであろう。この時は、上方からでも新調したと思われる御神輿を田中町、舘町の両町から塩越(現象潟町)まで人足を出してむかえに行き、また両町の親方衆や組頭が総出で、八坂まで出迎えた後、田中町の庄屋土屋吉兵衛宅に一時安置されたとする。そして次の日に神明社に納めるにあたり、愛染明王社で祈祷をしたことが知られる。愛染明王社が関わることは恐らく、領内総鎮守格としてのこの両社の崇敬を慮ってのことではないだろうか。生駒氏がこの矢島に帰参するときは必ず神明宮と愛染明王杜に参詣し、さらに江戸詰に出向くときにも両社参詣があったというから、神明社に対する信仰は深淵にして篤いものであるといえよう。その御神輿もまた慶応4年の祝融にあって灰燼するが、それを神社再建と同時に再び神輿の新調を行っている。明治34年の『郷社神明社祭典録』には、灰燼となった後、仮殿で祭式のみを行ってきたところを遺憾として、神賑の恢復を望み、明治33年が恰も皇太子殿下のご慶事(大正天皇ご成婚)にあたるを記念し御神輿、御神庫、拝殿新調を企てた、とある。御神輿製作にあたっては意を尽くし、大工棟梁は地元としても、彫物細工、塗師、金箔置は本荘町(現本荘市)の職人があたり、瓔珞他の金具類は東京日本橋で製作したものを購入している。神輿が竣工したのは34年10月11日で、12日には「寄付者其他庶民ノ縦覧ヲ許し、同十八日七日町村社へ安置し、昼間夜間共七日町扱二於テ非常ノ警備ヲナス」(神明社蔵『仮記録』)とした、ほどのものであった。御神輿の峻工を公開したが、昼夜問わずに厳重な警備をしている。これは明和9年以来のことでもあるのが、御神輿に対する敬意や尊重さはすこぶる高いのである。この年の祭礼は神輿の竣工が遅れたことから旧暦八月一日は行えず、旧暦九月一日に延期したが、俄に赤痢病が流行り、役場からの指示によって新暦11月3日に祭礼が執行された。勿論、宵宮は2日であった(『郷社神明社祭典記録』)。御神輿にはこれほどまでの尊重意識があり、それは現在の裏祭りという祭礼の翌日に行われる統前の授受(当番渡し)における『郷杜神明社祭典録』という引き継ぎ台帳の筆頭には必ず、「御神器調」「一御神輿」としていることにも現れている。このような御神輿であるからして、それを担ぐ人をお託宣というのは、恐らく信仰面から発しているのではないだろうか。託宣とは言うまでもなく神の言葉、お告げのことを示し、神が人に伝える意志や祈願の事柄に対しての神の答えである。八朔祭礼における御神輿に対しての尊重さや信仰面からみれば、それはまさに神の意志を担うほどのものである人びとによって担がれ、特別な祭役とされたからではなかろうか。さらにこのお下り巡幸ではお託宣ばかりではなく、祭役、巡幸において威儀物を捧持する供奉者まで一週問は精進しなければならないそれに、御神輿渡御行列にあたる役の召立が事前に決められて、その諸役氏名札が渡されると神棚の脇に貼っておいて、ひとつの誇りともしたといわれる。
 祭礼の一週間前から六丁内の始め在郷までに神楽回しといって、獅子頭を捧持して囃子がつけられ、各戸に門付けをして廻った。これも祭礼前の不浄を祓う意味があったとされるが、神社からは数日前から先祓いといって、神官数名によって、太鼓を叩いて先触れとなし、大麻、塩湯をもって全氏子の門口の祓いをしてあるく。これには初穂箱がついてまわり修祓を受けた氏子からは初穂を受ける。そして祭礼の当日御神輿のお下り、また神幸において、沿道の氏子各家では家紋幕を張り、灯籠を下げ、祭壇を設けて、御神輿の通るときに拝礼をなすことは今でも行われている。盛り砂もまた、御神輿と関係していて、清浄な川砂を祭礼前に採ってきて、これを沿道御神輿の筋道から白家の祭壇を設けているところまで轢いておくものである。同様なことは、本荘市内越の白山神社祭礼や雄和町大正寺荒波神社祭礼他にも、各地にこうした風習がみられるが、それは御神輿の巡幸をもって自家に神様を招き入れる道筋となる砂というものに外ならないだろうし、清浄な砂で清めるというほどの意味もあろう。
 八朔祭を神事からみると、このようにかなり厳重な清め式から始まる前儀があり、宵宮祭と高まって、お下り、当日祭の神幸、そして神社に還御、この間も獅子権現による悪霊除去の行事などによってさらに清浄をもたらし、神賑行事が繰り広げられるのである。そして、祭礼の翌日は裏祭りと称する統前の引き継ぎが厳格に行われている。
 

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