3.秋田県内の八朔祭・県外の八朔祭との比較 |
近世の八朔祭について矢島に係る文献はほとんど披見できないが、人見蕉雨が書き記した文政7年(1824)の「久保田城中年中行司」(人見蕉雨著『人見蕉雨集』第四冊所収/昭和43年10月/秋田魁新報社)によれば、「八月朔旦二月節句二同」とあり、これもまた実に簡単な記述だけしかみえない。では同誌による三月節供は、といえば「節句御嘉例之御規式」「御祝相済常之御料理御前御次共二御吸物出侯斗、外二相替事無之」とされて、吉例ではあったが必ずしも厳重な儀式があったとは読みとれない。ただ、御祝儀としてのお膳料理はあったようで、こうしてみると武家年中行事でも淡泊ながら八朔の祝いが取り入れられてきたことが判ろう。この頃の庶民ではどうであったかというと、文化13年(1821)頃に書かれたという「秋田風俗問状答」(今村義孝監修『新秋田叢書』第四巻所収/昭和46年9月/歴史図書社)には、「八朔の事」「茄子を重、あるは籠にして、秋草の花折添て親族かたみに贈り侯也。たのむの日とて餅つき祝ふにて侯」とみえる。文化元年(1804)頃の秋田城下では「秋田紀麗」(『人見蕉雨集』所収)によってみると、 |
朔日(八月)たのも(田の実)の祝いとて、近里縁家の方へ菜園を贈るに包花のそへ ものあり。むかし後嵯峨ノ院東宮にておはせし時、御閑慮をなぐさめ申さんとて、近 里の農民がなせしを、践昨ののち、其御嘉瑞とて此例ともなされしとや、羅山子の説 にも見ゆ。此夕べ、をどり収とて、矢橋山王の社内に聚り、仕組の狂言などあり。花 笠収と云となん |
としたものであった。花笠納めといって、町踊りの踊り納めの日としていたことは、城下町人とっても八朔が祝いの日であったことを意味するものであろう。町踊りの風は鹿角市花輪にもあり、これもまた各町内で八朔日から十五日(中秋の月見の旦まで行われるものであったから、八朔が風流、祭礼化していった跡形が知られるであろう。人見蕉雨がいう、この日に包み花を贈るのは風流であるが、贈り物や献上では、近世末期までは「八朔馬」として幕府から禁裏に献上する祝儀駒の風があったことが「思ひの儘の記」(瀬多章甫著/推定幕末期/『日本随筆大成』所収)にみえている。「秋田風俗問状答」にいう茄子を籠に入れて贈ったり、秋の草花を添えて贈るというのが民間でもなされていたとすれば、八朔の日が特別な斎い日であったことには違いないといえよう。こうしてみると、確かに近世でも武家杜会にも、町民にも、さらに農民においてもそれぞれの八朔祭の信仰があったことを知ることができる。そのうち特に、八朔祭が武士の信仰と何らかの関わりをもっていたことは、この祭礼の極めて興味深い点である。 |
秋田県内の民間習俗としては、八朔日は、どのようなことが行われてきたのだろうか。今、手元にある資料を些か拾いあげながら若干の考察をしてみたい。 |
まず、鷹巣町坊沢では、旧八月一日は八朔と称して赤飯をたいて祝う(坊沢郷土誌編纂委員会編『坊沢郷土誌』/昭和36年12月/同編纂委員会)としている。河辺郡地方では、八朔「一日は俗に八朔の朔日と称し、赤飯若しくは餅を搗きて祝ふ。此朝蓮の実飛び、若しこれにあたるときは、ハツチ(骨膜炎)を病みて不具になるといひ伝へ、外出することを忌む。若し不已むを得ず外出するときは、餅其他の食物を食ひていて出るを例とす」(秋田県河辺郡役所『河辺郡誌』/大正6年3月)。同じような風習は象潟町長岡でもいわれてきた。この日に蓮の実が飛ぶのを見ると病いに罹る、というので家で休んでいる。他に八朔は厄日ともいうところも多い。本荘市埋田、葛法では、この日の朝に蓮の実が飛び、もしこれにあたると骨膜炎を病んで不具になるといわれ、外出を忌み、止むを得ず外出する時は、生米か餅を食べてから外出するように言われていた。したがって、この日を二月一日と同様に厄日といい、かつては休みの日とされた。この日に赤飯・餅などをっくる家が今もある(本荘市編『埋田・葛法の民俗』/1991.3/本荘市史編さん室)というのだ。河辺地方と本荘では全く同じことがいわれてきたのである。南内越(本荘市)でも同じだが『南内越村誌』(旧版/明治38年)には、「八月休業」「朔日(三朔日ノ一ナリト云フ)」とあり、休みとしていたが、同郷土誌の新版(昭和5年)では「俗二八朔ト称シ、当地方ノ言ヒ伝ヘニ此日蓬ノ実飛ビ、是二当タル者ハ〃ハッツ"ト称スル病二罹ルト、〃ハッツ"ハ現今ノ骨膜炎ナリト言フ、当地ノ慣習トシテ朝仕事二出掛クル際何カヲ食スル奇習アリ(朔日ハ中世農家稲ノ初穂ヲ禁裏二献ゼシモノナリ上言フ故二、此日ヲ田ノ実ノ節ト称シ、世二其訓ヨリ愚ノ節句トモ抄ス)」と記される。同地では、奉公人の休みの日として、作祝いに長谷寺の祭舞台をそのままにしておいたのを利用し、唄と踊りで二日まで賑わったという。二日は幕納めといって若い連中が、上がったハナ(祝儀)で慰労会を行った。また一日、二日は赤田(本荘市)の三十三番札所を回り、大仏殿に御詠歌を納めた。このような行事が八朔に行われるのは、この日が休みとすることもあろうが、何らかの祭日が休みとされたのであり、八朔日は初穂を献じたように、もともと作祭りであったから、それにさまざまな行事がつけられていったことが考えられる。象潟町では少し変わったことが行われてきた。大飯郷(象潟町)は、九月一日(月遅れの八朔を八朔の一日といって、ハツソレ(初祖霊・新盆)のあった家ではアンビ餅をつくって隣近所に配るものであった、という。これは恐らく、亡き霊の供養が一段落して、いよいよ収穫にあたるときの忌から解かれることであり、この日が贈り物のする日であることにも由来したのではなかろうかと思われる。 |
八朔日のことをタノミノ朔日(ついたち)というところもあり、これは田の実のことを田の実に掛けていったとみられる。大館市比内前田では八月一日はタノミノツイタチといって、この日は家のオヤジが餅を食べたあと、どの田から先に刈りとれるか、田を見まわりに歩く。それで田の見の一日というのだとされた。また、仁井田でもこの日が休日とされ、櫃崎ではこの日は餅をついて休むことになっていた(大館市史編さん室編『大館市史』第四巻/ |
昭和56年3月/大館市)、という。男鹿では、一日(朔日)、休み日、八朔といって農家一般が祝う二百十日のお祝いで神棚にお神酒を上げる(脇本尋常高等小学校編『郷土誌資料』第二号/推定昭和7年/脇本尋常高等小学校)、という日だった。これに関連して、男鹿では八月十日が二百十日という風祭りの日として台風除けを祈願することに連続しているのであった。男鹿市五里合では、かつて盆の二十日までは盆踊りを盛大に行うが、二百十の厄日前後に一、二日を作踊りといって名を替えた盆踊りがされてきた(磯村齊藤監修・編『男鹿五里合の民俗』/平成2年11月/五里合郷十誌懇話会)。 |
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男鹿脇本の作踊り |
金足(秋田市)での年中行事を昭和11年8月に記録した、石田玲水の稿本(齊藤壽胤所蔵)によれば、「八月朔日・休み」として、「この日は休む。尚稲の豊凶によって、三日五日或ひは七日と休む。 |
作のよい時には作踊をやる。踊は盆と同じである」と記しているから、作踊りなどでもって八朔の祭祝いのようなことをしていたのであった。その外に収録される事例を拾うと、タノミノツイタチといって東成瀬村においては八月一日(八朔の日)をいい、人を頼んでもこの日は休ませて赤飯や餅をつくったという(東洋大学民俗研究会編『東成瀬の民俗』/昭和41年)。雄物川町や平鹿町ではタノミノセック(田の実の節供)といって、この日餅を揚いて神々にあげて祝った(雄物川町郷土史編纂会編『雄物川町郷土史』/昭和55年10月/雄物川町役場)、とある。また、平鹿町では、八朔のついたちと呼んで、田に入ってはいけない日といわれた。農宋ではその年の田の実の節供といって祈ったともいう(平鹿町史編纂委員会編『平鹿町史』/昭和59年9月/平鹿町)。河辺町ではこの日赤飯や餅を搗いて祝い、この日田に入ってはいけないし、朝には蓮の実が(ハッチ)が飛ぶとされて、これが体に当たると病気になるというので外出を忌むものだった。やむを得ず外出する人は、餅を食べて出るとその難を免れるといわれてきた。この日は農厄日であってこの日が晴れるとその年の秋作はいよいなどと言い伝えられている(河辺町編『河辺町史』/昭和60年10月/河辺町)。ほぼ同様のことが西木村でもいわれ、ハッチを骨膜炎として死に至らしめるものとみなし、八朔の餅というのを食べると難を逃れるという(佐藤政一著『西木村の年中行事』下巻/昭和62年3月/西木村教育員会)、ものである。旧暦八月一日をハッサクと呼び、外出するときは悪魔除けとして朝に小豆汁を食べた、という(雄和町史編纂委員会編『雄和町史』/昭和51年/雄和町)。同じく大正寺(雄和町)でも、この日は悪魔除けとする小豆汁を食べるのだとしていた(相沢金治郎編『大正寺村郷土史誌』/昭和38年1月/大正寺村青年団)。小豆は小正月の斎い日にも見られる特別な食べ物であるが、この小豆は五穀のうちでも畑作物のひとつであって、餅と小豆はハレの日の斎いの代表物でもあることに注目せざる得ない。正月と通じた信仰の現れとも考えられるのである。 |
八朔の日に特別なものを食べることであったのは、このようにいくつもの地域でみられたが、八月朔日にハシリの新穀を尊長に献ずるという風習は古来より農村の行事であったし、実際に収穫からは早すぎるのだが、早いが賞翫で、いち早く出来穂の一部を献じたのが八朔の始めだろう(藤田秀司著『餅』/1983.5/秋田文化出版社)というのである。それで、「八朔の餅」を揚き、お供えして、戴くことになるとされた。中仙町立石ではこの日の朝に餅を鳴いて田ノ神、甲子、庚申、二十三夜などに藁荏に入れて八朔の餅を供えるものであったという。『秋田民俗語彙事典』(稲雄次編著/-唱;/無明舎出版)によれば、八朔は旧暦八月一日をいい、農作業を休み田ノ神に新穀を献上し、赤飯か餅をあげた日で、豊作の時は作休みがあり、作踊りが行われもした、と述べている。 |
民間では、八朔の日は休日即ち神祭りの日とされ、何らかの祝いをするものであったし、その日が稲の収穫と関わっている稲作信仰に由来する行事も可成あったことが判る。そして、農厄日ということや、この日が災難をもたらす日とされたことは祭日の忌日とした観念に基づくものであったと思われる。蓮の実が飛ぶとか弾けるなどという日だが、秋田では蓮が生えているのを殆ど見かけない。実際は蓮実など飛んだところを見たことはないのであろうが、そのような伝承が八朔に限って言い伝えられているのには、蓮の実と稲の実とが何らか関連があったのではないかと思われるのである。近世後期の秋田を紀行した菅江真澄が残した日記によれば、八朔の日が初穂の祝いをする日である、作祭りであったことを紡佛させる記事がみえる。『雪の出羽路』雄勝郡床舞(羽後町)において、 |
このあたりのならわしにて、八月朔日、穂掛けとて、まづ稲穂刈りて、ニタ穂の稲くきの本をむすびもて、神社ごとに掛けて奉る、いといとめでたきためし也 |
とするように、例年行われる大変目出度い祭であるというのだ。稲穂を二、三束刈って神社にお供えするのであるから、初穂祝いということになる。八朔祭が庶民の間でもこうして行われてきたのには、稲作信仰でも重要な儀礼の日とみなさなければならないだろう。 |
全国的に八朔の行事を概してみれば、稲の実りの前の豊饒祈願習俗と、さまざまな贈答習俗が多くある。宮古市山口ではタノミノツイタチという、旧八月一日はタノミ(頼み、田の実)ツイタチといって仕事を休んで田を見回る日とされた。この時期は田の稲に実が入るために、田の実の節句をしたと言われる。タノミノツイタチは九月一日(以前は旧暦八月一日)で、農家では仕事を休んで田を見回る日とされた。都市部ではあまり行わない(宮古市教育委員会編『宮古市史(民俗編)』/平成6年3月/宮古市)。これでいうように都市部では行わないのは、農業に従事している人が少ないからであろう。やはり田の実が入るころに祝う節句の意味が強いことが判る。岡山県では里芋の掘り始めで、初物の里芋を神社に供える。鳥取県の農村では八朔の鳥追いといって、家の主人が、早朝、田に出て「ほーい、穂拾え、ほーい、ほ-い」と唱えながら、畦を走りまわることがある。また、島根県では田の畦で人声を上げ、「ホウタイマエ」などと唱えて作頼みをするという。ホウタイマエは穂賜る、豊賜る、とも解釈されるなど、稲作信仰が強くみられる祭日とされてきた。大分県の直入郡では、折竹の筒に神酒を入れて田畑に行き、「作頼む、作頼む」と唱えて作神をまつるという。『日本民俗資料事典』(文化庁文化財保護部監修・祝宮静他編/昭和44年7月/第一法規出版)では、「八朔節供」として「八朔に品物を贈ることは古くから行われており、特に主従や婚姻関係に多い。北九州にはマツボリ節供という所があり、従者たちが物をもらう日だといっている。静岡県の清水で嫁節供、埼工・群馬.静岡県などの一部でショウガ節供というのは、新嫁がショウガを土産にして里帰りするための名称である」と述べる。節供として意識せられているのは、八朔が年中行事のうちでも神祭りの日としても、節日としても重要であることがうかがえる。この日が特別社会的にも、交際にとって重要な媒介をなす贈り物を介してよしみに通じるのは、やがて来る収穫作業にとっても予め共同体を強固にする意味もあったとみることができる。 |
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福岡のたのみ節供 | 香川の馬あらし | 岡山の八朔節供 | ||
祭礼としての八朔祭はまた各地にある。いくつかあげるとすれば、まず能登半島の羽咋郡富来町の八朔祭が知られている。富来八幡神社の祭礼として8月31日、9月1日に行われる。神輿の渡御があり、この時に各集落から沢山のキリコ(奉壁)が出されて供奉し巡幸するという。キリコは漆塗りに浮き彫りにされた字がつけられたもので、領家の住吉神社に渡り、領家に限ってはいるものの天守閣を造り人形を載せた曳き山が出されるというのである。この祭礼には「タノミの祝儀」といった贈答があり、秋の収穫期を控えて、近親や手伝い関係に贈り物のやりとりが行われていた、といわれる。福岡県瀬高町の八坂神社の八朔祭は9月2日まで氏神に提灯をともして五穀豊穣を祈る祭りとされる。岐阜県川島町、松倉町では八朔相撲といって八朔日の祭礼に相撲が行われる。大分県臼杵市望月では王の字火祭りがある。旧暦八月一日から三日間行うもので、八朔の虫追いと、火伏せを兼ねた火祭りといわれる。山に王の字に並べた藁束に火がつけられると巨大な王の字が浮かび上がるという火祭りであるが、この火が稲作の悪虫を払うとされているが、虫除けもまた八朔の祭りの意義に通じていよう。他にも大分県の各地では八朔の日に相撲が行われるのは注目される。直江廣治著『祭りと年中行事』(1980.1/桜楓社)によれば、竹田津町中西方寺ではお宮で相撲をとったが、これは子どもがガワタローという河童にとられないためといい、香々地町早田でもこの日にガワタロー相撲といって相撲をとったという。川の淵に棲むガワタローが人を獲って困るので、八朔に相撲を奉納するから人を選んでくれと頼んでから止んだと伝えている。国東町岩戸寺でも、以前八朔相撲があったといい、真玉町常盤でも、この日を「タノミの節供」といって、以前氏神の境内で草相撲をとったという。節日に相撲を行うことは他にも各地にみられることで、これが相撲節として古くから宮中節会の行事ともなっていたのは、相撲にみられる悪霊祓いの呪術性によるものであると指摘する(山田知子著『相撲の民俗史』/1996.8/東京書籍)とおり、共同体を災禍から守るということは、この日が稲作の収穫に関わることを意味しているといえるだろう。岐阜県では美山町中洞で八朔の川祭り、上石津町牧田では上野八朔祭がある。島根県の隠岐、都万村佐山では八朔の牛突きが行われる。牛突きは檀鏡神社の八朔祭に際して牛を突き合わせて競い合うという、後鳥羽上皇が隠岐に御遷幸中に牡牛を集めて天覧に供したのが始まりという古い行事で、この勇壮な牛突きは強い力で悪霊を祓い、また作を占う意味もあるのだろう。島根県益田市高津町の柿ノ本神社八朔祭は、陰暦の八月一日に豊作を祈る祭りとされ、流鏑馬神事が行われている。滋賀県甲西町の若宮八幡神社では旧八朔祭として、今では10月に行うが、五穀豊穣と氏子の安泰を祈念して文久2年(1862)以来の神楽が奉奏されるという。茨城県ひたちなか市那珂湊の天満宮の祭礼もまた八朔祭として行われている。現在は八月の第四土曜、日曜日だが、天満宮の祭神が昔海から出現したという社伝に基づき、神輿が浜降りして戻るのであるが、これに六丁目の獅子(ササラ獅子舞)と元町のみろく(鹿島・香取・春日の三神人形あやつり)と、各町からの屋台が出される祭りである。文政8年(1825)の記録が知られて、屋台や万燈の類が多く出され、妓女を江戸から呼び寄せるなど豪華な祭礼をしたという。この祭礼はもと、子ども踊りを中心とする単純なものであったとするが、徳川光圀が東照宮祭礼に擬して規式を定めたという。文化、文政の頃になると那珂湊の繁栄にともなって豪華をきわめる祭礼となり、風流物が出現するに至るとされる。神輿の浜降りにあたっての出御、還御や、海中の神輿揉み、さらに囃子と獅子舞、みろく踊り、笛太鼓がついて豪華な曳き屋台がみられる八朔祭となっているものである。この祭礼には赤飯を薄の箸で食べて祝う風習もみられた。薄の箸は青箸の年取りに通じて、青々とした新しい箸で神供に添えたり、それでお下がりを食べることは特別重い神祭の験しと考えられ、それによって疫病を防ぎ、稲作農耕の祈願の信仰を伴うといわれる。 |
このように全国に分布する八朔祭礼は風流出し物も多く、その祭礼の神賑行事も厳重になされているのである。祭礼の信仰からみれば港町では漁業繁栄、豊漁といった祈りもあるが、総じて八朔日の節的な農耕信仰に由来することがいえよう。年中行事からみると八朔は秋の祭りで、都市部では風流の付け祭りが豪華に繰り広げられるという構造だが、那珂湊の天満宮のように水戸光圀が関わるとするように、武家の信仰も見逃すことができない。この点では矢島の神明社祭礼もそうした信仰のひとつに依って立つことは疑いないだろう。 |