の集落に配札されること(記録作成保存事業委員会著『木境大物忌神社虫除け祭り』/平成11年3月/矢島町教育委員会)により、各地区ではさらに虫除け祭は行う必要がなくなるというものである。ただ虫除け祭では新庄など、田ノ神別当(旧修験衆徒)強い農耕信仰のみられるところでは二重の虫除け祭を行っている場合もあることながら、それ以外ではほとんど民問の虫除け祭はみられないという特殊性がある。要するに、ここでもある特定の神社が行う祭礼の信仰が、同様行事を吸収するか、それの信仰に委ねてきたといえる、いわば八朔祭においても、特別な信仰形態を持つものであったとみられる。 |
木境大物忌神社の虫除け祭と神明社の八朔祭を勿論同一の位相でみるわけにはいかないが、四季の変遷によっても成り立つ祭の構造という点では、農業労働の展開過程に即応して祭日と祭祀が設定されてきたといえるから、その連関は時宜に応じて祭祀と信仰を巧みにしていたとはいえ、矢島ではこれを二大祭礼といってもいいものだろう。虫祭、虫追いという祭は、稲に害する病害虫を祓い落としてしまいさえすれば、稲の順調な生育があるとするわけで、虫祭は除災の神事である。鉦や太鼓を鳴らし、強大な神威を発揚する獅子権現を棒持して祓い、稲作、畑作を阻害する悪霊を追いながら川に流すという呪儀を展開してきた。そして、夏に至り暑さが増すにつれて人の勢力も衰えてくると病気にも罹る。やがて収穫の大事な時期を迎えるにあたり、この危機的状況から恢復をはかるときに本来的な魂を賦活するために神に願いを展開する。八朔祭は賑やかな状態を創りあげ、それに関わる者も観る者も含めて危機的状態を祓うためにも情熱と心血を注ぎ込む。その上で収穫を祈る、という秩序立てられた祭礼の構造も示している。 |
八朔祭における稲作農耕信仰は、矢島の神明社への神明信仰と相侯っているであろうが、それは恐らく早くに民間の八朔祭の行事を押しやってしまったに違いないと思われる。矢島は近世において所謂陣屋(城中)を中心とした御家中という武家町と、その周辺町(外町)が商業、職人、町人町として町部を形成してきたが、近郊は純農村とする、小都市と農村の関係があった。近代においてもこの町部と農村部との関係は、社会経済的な方面で密接なものがみられる。工商人の町部と、稲作農耕を生業の中心とする農村との交流がきわめて重要な意味をもつと考えられる。『矢島町史』(矢島町史編纂委員会編/昭和54年12月/矢島町)による、「盆市願上」「いさば商株仰付御証文」などの文書によってみても、市がたてられたり、商人の出入りも多く賑わったことが判る。近世では米経済の社会を反映するかのように米増産は必然的なもので、矢島では前郷のうちで新所村が新田開発によって生まれた一村であった。そうした矢島に限らないのだが、五穀の豊凶は藩財政や町の経済に響くのであるから、武家であっても豊饒の祈りは間接的に領民の撫育に通じていたと考えられる。祭礼への関わりも稲作信仰をもとにしながらの藩政でもあったといえまいか。近代にいたっては、商人と農村民との関わりが具体的になり、それが出入りといわれるお得意さんを持つ。八朔祭の日には、掛け取りといって売り掛けのある在郷の人びとを招待して、祭を見てもらい酒肴でもてなした。在郷農家では一軒の店のみの掛け取りではないから、勿論商家を何軒かかけもちをする。そして在郷の村々の祭には反対に商人が招かれて、もてなしを受ける、というものであった。町部ではこうした八朔祭が極めて在郷農家との関わりを強固にしていく要素があったのである。矢島では、八朔祭が恐らく他所では類例の少ない町部と農村との関係が神明社の祭礼を含めた信仰に引き込まれるかのように、他の農村部に普遍的に見られる八朔日の具体的な行事が行われなくなったのではないのだろうか。 |