5.神明社別当の変遷 |
第一章第二節の神明社の歴史の項で「御領分中覚書」の中に「神明宮別当実相院」と紹介したが、更に、明治2年矢島郷別当復飾之控の一部を紹介する。 |
城内 照皇山 神宮寺 実相院 |
最初開基年数は勿論、系図其外共一昨辰年(戊辰戦争)の兵火にて残らず焼き仕り 猶・私儀若輩の者故、聞き伝え連も是なく、万端中し上げ様これ無く侯。但し中頃中、 絶信州松本産の者、中興以来只今迄、九代目の由是のみ承り及び侯。此内にも四代 実名相知り、左に申し上げ奉り候。代々神明宮別当に御座候へども、前書の通り焼失 にて、其次第相分らず、但し愛染明王と両社当国の鎮守にて、去る四ヶ年前卯年まで 年々怠慢無く祭祀仕り来り候。当国随一の祭祝に御座侯。昨年御一新御趣意以来、 昨年両年は神明宮一社のみ祭祝仕り候。 |
従来より鳥海山衆徒に御座侯得共、是又記録焼火仕り相知れず侯・宥秀・宥伝・宥 忠・宥秀御趣意付は昨巳(明治2年)冬復飾仕り侯。 |
この復飾(還俗と同じ、この場合は修験僧であった者が俗人に還えることで、修験僧から神主になっている)の控で明かなように、神明社別当は実相院で、松本氏であった。 |
ところが、明治17年、九日町福性院の後喬、永泉隆賢が神明社祠官(神明社の神主)たることを望み、関係氏子異存なく永泉氏が神明社の神主になった事が、舘町丁内記録に明記されている。その永泉隆賢氏が北海道に渡ったのは明治20年代の後半であるが、これ又井岡宥純氏といつ交代したかは分からない、明治34年の拝殿改築神輿再建の大事業を推進したのは井岡宥純・矢越隆英の両神官である。 |
宥純氏高令となり孫の隆徳氏と交代、昭和8年隆徳氏死去、翌9年弟徳雄氏宮司となる。昭和47年徳雄氏死去により、昭和48年から同52年まで、村上浅吉氏が宮司代理をつとめ、同年の祭典から井岡隆徳氏の婿養子である井岡政雄氏が宮司となる。平成8年政雄発病、再起不能となり、井岡徳雄氏の長男利夫氏が宮司を継承現在に至っている。 | ![]() |
井岡宮司家明治2年復飾控は次の通りである。 |
現在の宮司井岡利夫氏 |
水上 御岳山 正覚寺 千手院 文弥坊 | |
累代系図の儀は、去る5ケ年前の春、並びに3ケ年前辰年の兵火、両度の火災にて | |
日記系図等残らず焼失に付き、近代の事も相知れず侯えども、其聞き伝え覚書左に | |
申し上げ侯。 | |
元来鳥海山逆峰に於て、内六躯並に三宿の家筋にて、理源大師開基以来相続仕り | |
候。其初め井岡(地名なり)に住し、故に井岡別当と唱え申し侯。根縫正重殿祈願の | |
由、正重没落の後城内村へ移住、4ケ所の除地(年貢免除地)、拙寺別当社御岳山の | |
儀、何時頃より崇い来り侯也詳らかならず、城内村水上鎮守にて代々別当職仕り候。 | |
世代の儀慶長以来15代の内、13代目前不詳、13代目城内尊応(金子丹十郎二 | |
男養子文化10甲戌4月12日死)、14代慶応、15代宥就午(明治3年)の68伜宥純 | |
午の32(妻午の27)同伜安養午の二蔵 | |
井岡嶽翁藤原宥就 同伜宥純同孫巽 去る己巳(明治2年)年冬復飾 | |
※矢島観光協会発行姉崎岩蔵著「鳥海山史」 |
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