4.神楽太鼓並びに山車・仮装の変遷
 現在宵宮の際、お迎え灯籠に先導されて登る各町若者衆による神楽太鼓は、いつ頃からなのかその記録は無い。行列帳の一番古いのは安政3年で、然も祭日の行列のみで宵宮の行列記録はないが、祭日の行列に「練子一行」「囃子かた」とあるが、現在の神楽とは別と思われる。次に古いのは明治34年の行列帳で前項で紹介してあるが、これには宵宮のB御迎灯籠につづき「神楽山付」とあり、祭日には各町「神楽山」とある。従って神楽太鼓は現在の神輿が再建された明治34年から行列に加わったものと考えられる。
 山車は矢島では「山」と称しているが、明治34年以前の記録には見当たらない。同年の祭日行列のC傘鉾の次にD練子新丁山・練子新町山・練子七日町山・練子田中町山・練子舘町山と続く、この年が最初であろうか。これより先、明治19年の舘町丁内記録に、若者等の「飾り物」を備えた記録は郷社指定とその後の祭典の項に紹介したが、その後の記録が見当たらない。現在のような山車の記録は、「七日町々内決議控」の明治36年旧8月1日の項に
 前夜神輿御下りは午後十時、少々雨天なり。
 祭典晴天にして、正拾弐時より執行、各町の出しは次の通り。
  年番 七日町は  かちかち山
  同  新町は    大ごくにねずみ
  田中町は      岩にたこ
  舘町は       新田義貞
 旧8月6日当番七日町・新町より、舘町へ引き渡す。と記録されている。
 翌37年には、田中町「桃太郎」、七日町「日露戦争」、舘町も「日露戦争」、新町も同様「日露戦争」とあり、その時代を反映させた山車である。その後毎年の山車の記録はないが、同40年には3町の山車と記録ているが内味は分からない。その後田中町・舘町・七日町の3町が山車を出し、いつからかは定かでないが城新も加わり4町の山車が神輿を先導して、賑々しい矢島神明杜の八朔祭りの伝統をきづきあげたようだが、昭和12年不幸にも町内に伝染病が流行し、祭式は壮厳に行うも余興飾山は中止と決定、翌13年からは厳しい戦時体制下に入り、山車の繰出しは中止となった。
 昭和21年からまた山車が復活したが、行列帳には記録されていない。この時から神輿と山車、仮装おどりは別行動となったようで、同24年から新丁と水上の若者衆も山車を出すようになり、現在に至っている。
 各町山車のテーマはその時代時代を反映しているようであるが、写真で次にいくつか紹介する。
大正10年舘町台車新調記念 昭和9年血戦高田の馬場 戦前の仮装
昭和21年文化国家の黎明 昭和21年 奴さん 昭和21年 きつねの嫁入り
昭和32年 昭和基地の饗宴 昭和39年東京オリンピック聖火 昭和39年三冠王めざす王選手
 昭和61年 ゲゲゲの鬼太郎 平成2年 平成の花嫁 平成12年 三 国 志
 仮装並びにおどりは戦前にも有ったようだが、いまのようになったのは戦後である。
 特に舘町若者衆(青年会)が毎年披露する歌舞伎調のおどりは、戦後、池田康雄氏発案で、毎年目先きを変えてのおどりでは無く、舘町青年会として特色の有るおどりを創作し伝統あるものにしようと取り組んだのが現在のおどりで、指導は本荘市三条場千寿さんで、その後田中町の土田チヤエさんや、舘町の小番真紀子(現須藤)さん等の指導により、祇園ばやしに合わせ、鏡獅子(連獅子)、供奴、毛槍奴、両手六方(忠信)を毎年繰返し、昭和25年からおどり続けている。
鏡 獅 子 供  奴 毛 槍 奴 両手六方(忠信)
 おどり手もかつては若者衆中心であったが、現在では舘町以外は、みな小・中学生も加わっておどるように変わって来ている。
 山車の綱を引く練子は、先の写真に見られるようにその服装は千態万様、お化粧をしきらを飾って綱を引く。町家では、のし袋に小銭を入れて待機し、顔見知りの練子たちに花を与えて喜ばせたものだったが、少子化にともない練子の数の少ないのは寂しい限りである。
 神明社八朔祭特有の「はやしかた」は、山車の中段前方右に大太鼓1人、並んで小太鼓2〜3人、小学校中・高学年の男の子の役目、かつては山車に乗り太鼓を打てるのは町場の男の子の誇りであったが、いまでは町内の男の子では足りなくて他集落から頼む町内も出ている。太鼓の後方に三味線1人に若者衆の笛2〜3人、曲は「祇園ばやし」「剣ばやし」「さいさいばやし」「さいさいぶし」とも言う。この三つのはやしは、いっの頃どのようにして習い学んだものか、いまでは他町のお祭りにテープで使っているところも有るが、笛・太鼓・三味線のかもし出すリズムとメロデーは、八朔祭特有のもので、これをくずさず伝承し続けてほしいものである。
 神輿巡行の道順は、藩政期の記録では「弁天→七日町→田中町→家中→陣屋→民部坂→(金比羅さん)→新町→舘町→神明」となっているが、家中をどう通ったかとか、舘町から丸森を通ったのか、水上を通ったのかは分からないが、陣屋大手門には必ず立寄り、御用部屋日記抄には「四っ時(十時)、御輿相廻り、御門内迄入らせられ、拝礼遊ばされ侯。」とあり、藩主が在府であれば城代家老が出座して拝賀している。

昭和40年代の神輿巡行

 いつの頃からか、家中に入るのに「表御門」からでなく、民部坂を登り家中に入るようになったのか、このことの記録は無いので分からないが、現在は、東は七日町(栄町)を通り大川原まで、北は小田の一部まで巡行するようになっている。

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