3.宵宮御下り行列並びに祭日神輿丁内巡行行列の変遷
 祭典行列の記録は安政3年(前掲)の祭日行列帳のみで、明治34年以前は不明である。現在の神輿が再建された明治34年以後は、「夜宮祭日行列役番」「行列記」「行列帳」等の名称で、舘町丁内で保存している。
明治34年の行列帳の概略を記すると次の通りである。
宵宮御下り行列の順
 @七五三大太鼓 A御紋付御幡 B御迎灯籠 毎年先方新丁・新町・七日町・田中町
 神楽山付・当番町舘町神楽山付 C赤御幡 D榊 E神主・巫女 F奉幣神官持 
 G斎主 H御紋付灯籠 I白御紋付御幡 J御神輿 K御紋付灯籠 L御初穂箱
 M白御幡 N毎年水上燈篭 O氏子総代有志御供
祭日行列の順
 拍子木が先ぶれ @塵取 A露沸 B御紋付御幡 C傘鉾 D練子新丁山・練子新
 町・練子七日町山・練子田中町山・練子舘町山 E辻利奉納大幡 F御榊 G神官
 H御初穂箱 I白御幡 J巫女 K御神楽 L赤御幡 M副祭主 N御初穂箱
 O白御幡 P御神輿 Q祭主 R御供 S七五三大太鼓 S各町神楽山 K獅子舞
 明治34年は、現在の神輿が再建された最初の年であるが、電気の無い時代の宵宮は灯籠がもっとも目立つ物であり、各町よりの「お迎え灯籠」が、然も弁天様(宇賀神社)への案内役として先方が新丁で、水上が神輿の跡に従うのは今も変わりない。この「お迎え灯籠」は、舘町丁内記録明治19年の項には「お迎え灯籠の催し賑々しく」と記録されており、同25年の記録にも「灯籠山」とあり、宵宮の花であったことはいまも昔も変わりないが、どの様な灯籠がどれ位の数で賑々しかったのかなどは定かでない。
 現在は各町小若・中若が掲げる田楽灯籠が神楽太鼓を先導し、「エイエイオウー」の掛声勇まし様、その後に神楽太鼓、その後方に若者の持つホウズキ灯籠と、更に神輿前後に生駒家家紋の「半車」をえがいた「御紋付灯籠」が従い、最後方に昭和28年から商工会の献灯が加わり、更に昭和56年からは、町内各種企業の献灯もあって秋の夜空を神楽太鼓と笛の音と共に夜宮を彩る最高の風物詩、それが「お迎え灯籠」である。
 「ドン、ドン、カカカ」「ドドドン、カッカ」と、間断なくそして遠く近くにひびきわたる「七五三大太鼓」、この年の行列帳では、御下りは先頭で祭日町内巡行時は後方に位置しているが、現在は共に先頭に位置し先触れの役を果たしている。毎年の行列帳のうち大正年間は欠けるので、改めた年は確定出来ないが、昭和5年から現在のように宵宮祭日共に先頭に位置しており、幼い子どもらには「ドドカカ来た」と親しみをもって、又、年輩者には郷愁をそそちれるのが「七五三大太鼓」である。

行列の先頭を行く「七五三大太鼓」

お迎え灯籠

 御下り行列B神楽山と、祭日行列、各町神楽山、現在の各町神楽太鼓のことと考えられるが、現在は宵宮だけで終わり祭日行列には加わらない。これも行列帳を調べると、祭日に各町神楽が神輿の後方に従っていたのが、昭和5年からは当番町の神楽のみが神輿の前方に位置を変え行列に加わり昭和18年迄続いているが、一時行列が中止となり、戦後23年の行列帳には「本年より拍子木廃止」と有り、翌24年からは祭日神輿巡行時の当番町神楽も神輿の先導する事を廃止となって現在に至っている。
 祭日行列のC、人足6人で持った「傘鉾」も、昭和19年迄で、戦後の行列帳には記載されていない。

 

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