3.明治以後の神明社
 慶応4年(1868)7月28日、鳥海山頂越えして来た庄内兵の奇襲によって、家中・丸森は、桜庭家と祥雲寺を残し他はすべて焼き払われてしまい、神明堂も社殿神輿等皆灰燼に帰してしまった。
 
(1)現在地に再建

 明治2年(1869)、生駒氏封土を奉還後、明治4年11月旧矢島県において社地を向山(現在地)に撰び、仮殿を建立して此の地に奉還す。その規模は不明だが右の棟札が保存されている。
 
(2)郷社指定とその後の祭礼
 神社の記録には「明治6年郷社に列す」とある。
 秋田県近代総合年表によると、「明治6年10月18日、県内郷村社を確定しそれぞれの氏子配当と神官新任を終了」とある。

明治4年上棟札

 神社祭典に関する記録は無いが、明治16年からの「舘町丁内記録」に書きしるされている神明社に関する記録を紹介すると次の通りである。
 明治17年3月14日、矢島町組合戸長竹村秀高より、舘町斎藤忠一郎、大井清造、藤田治三治宛に「永泉隆賢儀神明社祠官望みの儀之有るが賛否を問う」とのこと、舘町丁内7名が協議し、同日異議御座無く侯と回答している。
 同年8月7日の記録に、当郡内郷社祭典の儀は、従来の慣習に依り両丁にて隔年年番として祭典に従事致し来り侯処、右は旧君御在国の折両町特に仰せ付けら侯次第に之有り、故に祭典費用は御領分中より差出しけるも、御維新以来氏子を以て祭典致す可き事に定り其氏子は、城内村、矢島町、田中町、七日町村、舘町、九日町等にて、この祭典費を差出すも少額にて間に合わず、当番両町にて毎年4、5円づつ追足し年番相勤め居り候処、本年も又年番に当り、右の訳柄から両町のみ祭典に従事するの限りにあらざる故、氏子町村協議を尽し、祭典事務を公平にすべき旨戸長十田八十郎殿へ建議申し侯。
 同月20日、役場より郷社祭典之儀協議致す可く通知有り4名出頭、田中町より3名以外他出頭これ無く、本年より神官永泉方へ祭典執行方依頼し解散致し候。
 明治18年9月8日(旧7月30日也)、明9日(八朔に当る也)神明社御祭典の処、一昨年迄両町にて隔年年番を以て祭典執行致し来たる処、昨年より神官に任せ侯事に相成り、然るに祭典費として氏子中より戸別に弐銭づつ差出し居侯得共に、其金額僅少なるを以て、−中略−社内掃除人夫5人差出申侯。
 明治19年10月4日の記録には、役場より出頭致す可く様通知に付き出頭侯処、神明社祭典悪病流行の為延行相成侯。(更に一町5名づつの祭典委員を決めている。)
 同年11月16日・17日両日、郷社祭典執行侯事。本年は幸い当郡内に悪疫之無く、人民虎口を免れたりの僥倖とも云ふべき、殊に非常の大風雨に罹りたるも作合には差したる影響も及ばじ、豊作と云い民心稍愉快を聞きたく折柄に付き、役場戸長土田八十郎殿より各町申し合せ、今回祭典は一層盛大に致し度旨内諭之有り侯に付き、前記の祭典委員等各町申し合せ夫々催し等之有り、大いに賑はしく、当丁内にても若者へ内諭を加へ丁内へ飾り物致し侯事。
  植村松吉宅へ 豊後三郎の飾り 菅原景宣宅へ 挿花の飾り
  田中善吉宅へ 植木連飾せり
   其外御迎へ燈籠の催等随分賑かなりき。(『御迎へ燈籠』はじめて出てくる。)
 一、田中町若者ば、大佛供餅の備へもの催しあり。
 一、七日町若者は、大名燈籠弐つ、ウカイ水、其他花燈籠等面白き出しものありき。
 一、新町若者は、大燈明弐丁出しものあれども、夫々はやしにて16日の夜両社境内迄
   繰出しけり。
 一、祭典当日は勿論(夜宮は面見せにて止む)、18日迄玉ころばし(南京人2人と外に
   4、5人連中)の芸人雇入れ、境内に於て各町より出金の上、放楽手綱相催し候事。
 出金左の通り(『四町負担割合』はこの年であろうか。)
  田中町 金5円也 舘町 金五円也 七日町 金3円30銭
  新町 金1円70銭 城内村より出金之無し 九日町村より62銭
 右にて祭典も首尾よく相済み、各町祭典委員は頗る尽力せり。(大井は番主)
 一、当町若者より祭典費の請求之有り、丁内より催しの内諭等致し侯儀に付き、やむを
   えず金7円差出遣し候。尤も丁内無尽より支払い候事。
 一、前条の通り祭典費予定致し侯得共、城内村・矢島町等より出金之無きに付き、追い
   割出しの事に相成り、当町より左の通り差出し侯事。
 一金5円  予算割合分 一金2円1銭 戸別割祭典費
 一金4円25銭 決算不足金追徴分
  〆金11円26銭 外に50銭5厘(百匁蝋三丁代、神酒弐升の中半額)
  合金11円76銭5厘
 右の通り残らず相渡し請留あり。是は追て丁内一統へ割付け徴収の上、弁償致可く侯事。「舘町丁内記録」は以上で終っているが、明治19年の記録は具体的で、現在の祭典に結び付く数々の事を伝えている。
 現存する神明杜の祭典記録は、明治23年の記録が一番古く、その前書に「神明社の儀、藩政の頃は矢島第壱の宮にして、藩主の命令に依て両丁隔年の世話番を立祭典執行致し来り侯処、明治維新後は(藩政廃止以来)、扱所(連合役場)にて神官に申し祭事執行の所、明治9年頃扱所を廃し各町村毎に戸長役場を置きたるに付き、関係町村戸長に於て神官に量り執行せるも、年々諸事好都合に参り兼候のみならず、益々衰退に立至り候に付き、明治16年より総町より祭典世話係を設け、世話係に於て協議を遂げ万事取り計らい侯事に決定致し、尤も年番は各町村に致し候趣き協議に及び侯得共、旧例に依り田中町・舘町両町に致し呉侯様他丁より申し出侯に付き、巳むを得ず当分両丁持に定め置き候事。
 祭典費の儀は、初めは1戸1銭5厘づつの処、其後協議の上3銭づつと定め、氏子より出費致し居り侯事。
 右年月明瞭ならざれども聞き覚の儀聊か記録致し侯事。」とある。明治初期の実情を知る貴重な記録である。
 次に世話掛りとして次の人名が記録されている。
  舘町祭典世話掛 大井清造 藤田治三治 斎藤忠一郎 土田善吉 佐藤留治
    氏子総代人  三船湊右工門
  田中町祭典世話掛 須貝太郎蔵 須貝作吉 武田源吉 土屋貞蔵 土田房治
    氏子総代人  玉川清六
  七日町祭典世話掛 伊東与三郎 山田久太郎 蒲田久造 佐藤久吉 冨田忠治郎
    氏子総代人  高山右司馬
  新町祭典世話掛 相庭救 大井与四郎 小番柳治
    氏子総代人城内村  椎川久治郎
  矢島町氏子総代人 佐藤昇三郎 尤も菅原景就の後任なり
    城内村祭典世話掛 新田竹次 植田信吉
  九日町祭典世話掛 三浦与四郎
 旧7月23日(明治23年)
 本年は近年稀なる豊作に附ては、市街有志若者申し合せて、演戯催し度、就ては各町内より費用補充方取計い呉れ候様、若者代人として小番柳次・佐藤留治両人願出に付き、本年は当町(舘町)年番に付き、各町世話掛へ回章差出し、田中米造方にて協議致し侯事。
 出席人8名にて化粧料として25円割当て、狂言執行に取定め侯。
  旧7月27日
 社地掃除人足例により左の通り差出し侯事。
 当町より人足10人 外町は掃除場請持のか所之有るに付き、人足員数は取調申さず侯事。
   同 28日
 社地見廻り及祭典準備協議として、大井清造、三船湊右工門社地へ参り侯。
   同 29日
 本日夜宮に付き早朝より世話掛り集会の上、社地へ夫々準備致し侯事。
   当日人足 3人 丁内 3人 田中町
   同日夜  2人 丁内 2人 田中町
 一、御神酒2升丁内より各丁も2升づつ献酒、都合御神酒8升有り。
 一、世話掛及氏子総代にて神酒開き、当丁内よりうちわ餅百串持参致し候。
 一、本日社地粧色のため、前年預り置き侯品左の方より取寄せ侯事。
   幕  須貝より 流し幡 同人より 祭典用畳拾枚 土屋より
   燈籠 残らず土屋より 角燈篭 百 矢島神社用椎川より借用
 一、世話掛詰所仮屋は、年々金壱円にて造り殿し侯ため受負侯に付き、本年も伊東専
   八・原田粂次両人へ受負せ侯事。但し29日幡立等へ手伝いも致させ侯事。
 一、燈篭用蝋燭は両丁持ち、大燈篭には50匁2丁、御紋付き大形には20匁、其の他
   は10匁、小燈篭には3匁を相用い候事。
 一、午後6時より世話掛一同、上下にて相詰侯。
  八朔
 本日午前第9時、世話掛・氏子総代人一同上下にて相詰侯事。
 一、本日拝殿にて献酒献立左に
   棒太ら 帆立貝 鮎 きんこ さつまいも
   右5種 盆詰にて引落す也。
 一、酒壱斗五升位
 一、各町若者狂言執行に付き、舞台懸け毀し人足願出之有り侯に付き人足差出し侯
  事。
 翌明治24年は、田中町が年番につき記録されていない。
 明治25年、舘町が年番で、旧7月23日、田中町・七日町・新町より各1名、当番丁舘町より2名の世話係が集って、次の2点を協議す。
 一、芝居建元より各町よりの補助要請があるが、各町補助は出せないので建元の見込
  み裁量で行うこと。
 一、本年は稀なる豊作に付き、各町若者へ何か相催し侯よう各町内より奨励の可否を
  協議、是も別段奨励の必要なく、若者に相任せ置くことに決定している。
 同年旧7月28日(新9月18日也)
 一、本日当町若者より、燈籠山相催し度に付き、金10円補助してほしいとの申し出が
  有り伍長が協議す。とある。
 明治19年の舘町丁内記録にも「お迎え燈籠」の催し賑々しくとあり、25年の記録には「燈籠山」とあり、神輿再建以前ではあるが、燈籠の存在が大きい事がわかる。
  
(3)神輿・拝殿の再建
 戊辰の戦災で灰燼にきした社殿は、明治4年に仮の拝殿を建立したのみであったが、
明治33年5月、ときの皇太子嘉仁親王(大正天皇)が九条節子様と結婚の御慶事にあた
り、その記念として神輿及び拝殿の新調を意図し、広く募金活動を行い完成したのが現
在の神輿で、拝殿は昭和3年に改築されている。
 当時の「御寄附帳」「会計簿」「領収書」「受取書・仕切書・契約書」「葉書.電報」「御誂御
輿金物仕様書」「仮記録」「買物帳」「事務引渡目録」等一さいの記録が神社に保存されて
いる。その主な事柄をいくつか紹介する。
 一、この事業を推進するため、次の規定をもうけている。
    規  定
 一、寄附金ハ総額千円以上募集スヘキ事
 一、寄附金募集ハ発起人、氏子総代人及ビ世話人ノ負携トシ 其募集二依ル費用日当
   ハ一切要セサル事
 一、寄附金之出納ハ蔵元壱名 副蔵元弐名相定メ 確実二取扱フ事
 一、委員四名撰定 万事委員ノ協議二依リ決スル事
 一、寄附金ノ出納ハ総テ正副蔵元二専任スル事
    但シ委員ハ之ヲ監査スル事
 一、蔵元及ヒ委員ハ発起人二於テ撰定ノ事
 一、御神輿請求方及ビ祭典執行迄ノ諸務ハ 総テ蔵元及ヒ委員二専任スル事
 一、寄附金受領証ハ蔵元調印スル事
 一、寄附金ハ集金ノ都度 蔵元ノ名義ヲ以テ郵便貯金二預ケ置ク事
 一、寄附金取集ハ両回ト定メ 内半額ハ即納 半額ハ旧六月三十日限リ申受ル事
  (改正内三十四年旧正月限リ、旧二月拾日限り)
 一、御神輿ハ本年(三十四年と改める)旧八朔ノ祭典迄 新調ノ事
 一、寄附金ノ出納ハ明瞭二取扱ヒ 決算報告ハ寄附各位二必ラズ相廻ス事
 一、金壱円以上寄附者ハ 御輿ノ内二記名永久保存スル事
 一、金参円以上寄附者ハ 特別二毎祭典家内安全ノ祈祷スル事
 一、金五円以上 神供ヲ授与スル事
 一、拾円以上寄附者ハ特別待遇ヲ成ス事
 以上、16か条の規定をもうけ、これに依って厳正に運営されたことが、保存されている
記録類で明らかである。
 一、主たる関係者(仮記録に記載されていることを要約して紹介する。)
  正蔵元  藤田吉松   副蔵元  武田源吉  同  山田久太郎
  委員四名  若松末吉  大井典四郎  冨田直次  土田源次郎
  神官   井岡宥純  矢越隆英
 募金のため集落に回った方々
  田中町  若松末吉  須貝作吉  東海林信一郎  大日向善七
  新丁   土国房次  三浦和七
  舘町   藤田彦吉  河内虎次  佐藤清三郎  東海林権右工門  三船彦松
        佐藤安治  片倉太七  真坂良左工門
  七日町  山田久太郎  冨田直治  佐藤利七郎  佐藤徳次  伊東与三郎
  新町   相庭救  大井与四郎
  神官   井岡宥純  矢起隆英
 工事委員
  田中町  若松末吉  東海林信一郎
  舘町   三般直吉  佐藤清三郎  真坂良左工門
  七日町  冨田直次  山田久太郎
  新町   小番柳次  大井与四郎
  神官   井岡宥純  矢越隆英
   工事委員は 毎日輪番で工事現場に出て監督に当ること。
 一、募金の実際(円以下を切捨てる)
   家中  21名   94円    田中町  51名  138円
   舘町  64名  140円    七日町  65名  124円
   水上  19名   16円    新町    36名   71円
   小田築館 28名 44円    荒沢    41名  100円
   元町  36名   78円    坂之下  23名   59円
   新荘  25名   76円    立石    23名   62円
   木在   8名   18円    川辺   119名    70円
   川内村 53名   58円    直根村  28名    43円
 合計  寄附応募者 640名   寄附金総額 1187円也
 一、事業費内訳上掲の記録の通りである。
   郷社神明社拝殿・神庫及御神輿・祭器新調費調
 一、拝 殿  着手 明治33年8月1日  竣功 明治35年10月1日
         実費総額 金517円94銭
 一、神 庫  着手 明治33年8月1日  竣功 明治34年9月15日
         実費総額 金245円18銭
 一、御神輿  着手 明治33年8月1日  竣功 明治34年10月1日
         実費総額 金616円67銭
 一、祭器総額 金128円25銭
  右39年12月20日矢島町役場へ調出ス
 一、神輿製作に携わった職人たち(受領書に記載されている氏名)
  大工 棟梁 蒲田久蔵 永次 吉松 銀平(村井) 芳吉(三森) 米次(金子)
          雄次郎(伊東) 久八(北島) 直蔵 重次(佐々木)
  彫刻 請負人  本荘町石脇 佐藤勝太郎(契約書が綴りにある。)
  塗装・金箔置き 本荘町 和田隆慶 渡辺金次 吉成勇四郎(弟子)
         (佐藤利七郎宅に泊って作業したようで、宿費が沸われている。)
            矢島町 加納熊太郎 同 熊平 同 九二七(18才)
  金具納入者   東京日本橋区通油町18  銅屋清次郎
             (詳細なる御読御輿金物仕様書あり)
  金箔・朱等納入者   東京  守田重次郎
 一、製作作業場所記録は無いが、受領書に「工處謝礼壱円広祐寺」とあるから、大工の
   作業場は広祐寺の一部を借用して作業に当ったようだ。大工の工作が終った後、七
   日町の佐藤利七郎宅(現在の蒲田米屋の下手)に移して、塗りや金箔はりなどの作
   業が行われたようだ。
    仮記録に、完成からその年の祭典までの神輿について、次のような記録がある。
    「三十四年十月十一日、従来ノエ事場佐藤利七郎ヨリ神輿ヲ舘町藤田方二移シ、
   刻物・羅門・綴絡等ノ飾付ケヲナシ、翌十二日全体ノ竣エヲ終へ、寄附者其他庶人ノ
   従覧ヲ許シ、全十八日七日町村社(観音様)へ安置シ、昼間夜間共七日町扱二於テ
   非常ノ警備ヲナス事二定ム」
    (祭典は其後11月2日夜宮、3日祭典が執行された。)
 一、神輿新調経費の概要(領収書より推定)
    大工手間  蒲田久蔵渡し       約91円
    金具納入  銅屋清次郎へ送金  約234円
    彫刻物   佐藤勝太郎渡し       45円
    塗り方    和田隆慶渡し      約65円
     同     加納熊太郎渡し     約17円
    金箔代等  守田重次郎渡し     約89円
    職人宿料  佐藤利七郎渡し     約37円
    外諸経費                 約39円
     合 計                 約617円
 一、神庫並に拝殿工事
  神庫は明治4年に建てた拝殿の古材を使って、大工は蒲田久蔵が棟梁、左官は金子
 喜久蔵が建築に当り、上記の通り八尺二問四方の荒壁の十蔵に板張りの覆ういで囲っ
 た建物であった。
  拝殿は上掲の大きさで、大工棟梁は蒲田久蔵、屋根は柾葺で、材料の柾材は熊之子
 沢の佐藤初吉が納入、屋根葺は中川鉄之助とある。木材納入者は佐藤勇七、佐藤清
 左衛門の名が見える。
  当時建立された拝殿は、昭和初期に解体され、現在の根城八幡神社の拝殿として使
 用されているとのこと。

明治34年神輿新調記念(功労者) 御神輿 丁内巡幸
  
(4)神社合併と記録札
 神社合併に関しては、矢島町史の下巻にも記載されているが、明治40年8月に発せられた「秋田県訓令」によると、県内の神社は規模が狭少で常置の神職を欠き、祭祀も十分行われず、神威を汚濁する恐れもある実情にありなどとして神社合併を奨励し、因襲や伝統になじんできた氏子にとっては、にわかに応じ切れないこともあったろうが郷杜神明社に合併したのは、記録札によると次の通りである。
 @立石神明社
   祭 神  星宮大神・立石大神・少彦名大神・稲倉魂大神・保食人神・大山砥大神・
         羽宇志別大神・月夜見人神
   合併年月  明治43年1月20日
   信徒惣代  佐藤覚右工門外18名
 A七日町 稲荷大神
   祭 神  稲荷大神・猿田彦大神・雷大神
   合併年月  明治43年2月24日
   信徒惣代  山田久人郎・伊東些二郎・冨田直次
 B水上 山神
   祭 神  大山低(祗)大神
   合併年月  明治43年2月24日
   信徒惣代  大場米作
 C新丁 宇賀神社
   祭 神  宇賀大神
   合併年月  明治43年3月21日
   信徒惣代  大井平三郎・伊東留次・土田安吉
 D水上 諏訪神社
   祭 神  諏訪大神
   合併年月  明治43年3月21日
   信徒惣代  金子ナヲ
 E築館 八幡神社
   祭 神  八幡大神(八坂大神)
   合併年月  明治43年3月21日
   信徒代表  植田信吉・佐藤乙次・佐藤定吉
 F田中町 秋葉神社
   祭 神  秋葉大神
   合併年月  明治43年4月18日
   信徒惣代  豊島常蔵・畠山賢七・加納熊平
 G八立 石神明社
   祭 神  天之御中主神・童呈覚姫命・太田命・大宮能売命・少彦名神・大名岸遅神
   合併年月  明治45年2月4日
   信徒惣代  三浦忠吉・小番菊治・佐藤勇七
 H川辺 神明神社
   祭 神  天照大御神・大日霊命・速須佐勇命・大山砥命・大田命・水波能売命・
         大宮能売命・稲倉魂命・伊邪那岐命・伊邪那美命
   合併年月  大正2年9月16日
   信徒惣代  佐々木貞治・佐藤耕一郎・佐々木慶吉
  合併時の神職 社司 井岡隆徳 社掌 井岡宥純 矢越隆英
  同氏子総代人 豊島常蔵 佐藤漬二郎 冨田直次 佐藤定吉
 以上が合併記録札の有るものだが、明治34年からの「郷社神明社祭典録」によると明治43年、樋上神社(大山祗命)合祭に成ると記録されている。
 尚、@の立石神明社やHの川辺神明社の祭神名を見ると、郷社神明社に合併する前にその地域内で合併し、更に郷社神明社に合祀したもののようである。
 
(5)昭和の大改築
 現在の社殿は、昭和3年9月17日上棟の総棒造りの立派な社殿であるが、その全面改築の経囲は、上掲記録札と簿冊寄附帳一冊のみで、他の記録は一さい無い。
 記録札の記載内容
   奉祝 郷社神明社上棟 天皇皇后 両陛下萬々無窮歳   紀元2588年
                         氏子安全萬々無窮歳 昭和3年戊辰9月17日
   社司 井岡隆徳  氏子惣代    工事委員
   町長 土田正作  土田源次郎  大井直之助 畑沢賢蔵 木村勇七 佐藤直太郎
   助役 佐藤徳一郎 若松喜五郎  藤田彦四郎 山田久太郎 大井永吉 大井友吉
   助役 佐藤長作 村山忠蔵 姉崎平次郎 佐藤久兵衛 相庭揆一郎
    社寺係 小番周吉 須貝久平 小野藤吉 片倉直映
    特志者  金子巌  藤田太郎  武田源吉  木村明治郎
    世話人  大井永吉 小松留七 茂木文吉 土田芳吉 佐藤米吉 東海林信一郎
          三浦朋造 茂木'梅治 土田善吉 佐藤常太郎 佐藤耕一郎 大杉勇作
          村上信治 真坂勝蔵 三浦吉郎 小番徳七 佐藤久也 辻利右衛門
          三浦利七 佐藤徳四郎 佐藤留治 土田和一郎 佐藤米吉
          土田専四郎 豊島長治 佐藤鉄郎 小番伝四郎 柴田由郎 佐藤徳治
          新田耕太郎 木村光次郎 三浦芳治
  棟  梁  土田文吉
  設計者  半田直吉
  彫刻師  鈴木明秋
  大  工    金子彦吉 池田孝輔 佐藤柳蔵 小番与五郎 牧長四郎
        小沼常治    三浦米七   豊島仁三郎  佐藤久也 佐々木綱四郎
        田中勇一郎  中村亀蔵    佐藤幸三  佐藤熊治 加藤鬼一郎
        大日向定蔵  村上直蔵    伊東勇七  木村常吉 小番丹蔵
        佐藤吉太郎  蒲田金次郎  村上良助   佐藤幸吉 良雄
        金子米治   佐藤太次郎   中村虎蔵  太田芳蔵 佐藤輿七
        十田常松   山田庸三郎   伊東五三郎  柿崎太郎 堀内孫四郎
        小番孝蔵   北島元治     畠山茂吉   岸田安吉 竹村金蔵
        加藤銀治   北島久八    東海林良橘  新田長吉 
  土 工  鳥羽寅吉   佐藤 轀
  石 工  尾崎静芳   阿部礼蔵
  木 挽  瀧野栄蔵
 寄附帳によると、矢島町全域を回り969名より寄附をいただき、更に川内村8名、東滝沢村1名、本荘町2名、東京在住者1名と合計981名の方々からのご寄附を頂戴、最高額2000円・最少額1円で寄附金総額は41,358円となる。更に用材としての樫材・松林寄附者42名、石材寄附者6名、人夫出役寄附82名など、寄附帳のみの資料だが全町あげての寄附により全面改築されたのが現社殿である。明治6年郷社としての格を得矢島町総鎮守として崇敬された証左と言えよう。

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