2.藩政期における神明社と八朔祭
(1)元禄の絵図面
 現在秋田県立の公文館に保存されている次の国御絵
図に載っている「御伊勢」が、現在の神明社の最も古い
記録である。
 絵図面の表書は次の通りである。
  国御絵図 三枚之内 生駒主殿知行所
   羽州由理郡矢島・玉米・下村之図

元禄10年 国御絵図より

              川村源太輔
   元禄十丁丑歳十月十七日上之
 
 領主生駒主殿は三代親興公で、初代高俊の四男、兄高清の養嗣子となり家督を継いだ。
 延宝5年(1677)百姓一撲などあり苦労したが元禄15年江戸で死去した。
 当時の伊勢堂は、陣屋(主殿居屋敷)の西方約三百米位の小高い所に在り、後の御領分中覚書による、御城内神社、北より熊野堂、別当南光院。天満宮、御祈祷所十社の内別堂徳性院。愛宕山、御祈祷所十社の内、別当元弘寺・神明宮((元禄の絵図面は御伊勢)、御祈祷所十社の内、別当実相院。愛染堂、御祈祷所十社の内、別当金剛院。法花は現在の法華宗寿慶寺。ひとつ沢を堺にして現在の諏訪神社と西の館が並んでいる事を示す。
 
(2)宝暦年代の陣屋絵図
 現在矢島町郷土資料館に展示されている陣屋絵図は、年号は書いて無いが、家臣団の氏名からみて宝暦年問の絵図と推定されるが、元禄10年の絵図面と比較して、位置は同じだが「神明」と記録されている。宝暦は1751年から1763年迄の13年間である。
 
(3)分限帳に見る寺社の存在
 館町大井益二氏所蔵文書の、文政10年(1827)の生駒家家臣団の「分限帳」に依ると、次の通り寺社料が支給されている。

寺 社 料

一、 米弐拾俵 龍源寺料
同拾俵 御霊供料
一、 米六拾俵 福王寺
御合力初穂米・時鐘料共
一、 同六俵 同寺薬師
一、 弐人扶持 寿慶寺
一、 壱人扶持 御茶湯料 広祐寺
一、 壱人扶持・弐俵 自姓庵 御霊供 (山寺)
一、 米拾壱俵 稲荷堂 (現金毘羅さん、別当南光院)
一、 同四俵半 如意輪堂 (当時同境内に、別当南光院)
一、 同拾俵 神明堂 (福王寺左下、別当実相院)
一、 同六俵 愛染堂 (番神堂右下、別当金剛院)
一、 同四俵半 愛宕堂 (菊地さん裏の上、別当元弘寺)
一、 同六俵 天神堂 (大井さん裏の上、別当徳性院)
一、 同壱俵半 御嶽堂 (現神明社境内、別当千手院)
一、 同六俵 観音堂 (七日町、別当明王院)
一、 同拾四俵 八幡宮 (根城、別当光明院)
一、 同壱俵半 白山堂 (白山長根)
一、 同六俵 若宮 (根井館、社司太田伊勢守)
一、 同弐俵 山神巫女に下さる。
一、 同壱俵半 虚空蔵堂 (郷内、別当大教院)
一、 同壱俵 保呂羽山 (下村郷法内、別当極楽寺)
一、 同六俵 鳥海山祭礼木境登山修験並笈取当人衆徒に下さる。
一、 同四俵 宗林寺不動並湯殿代参
一、 同六俵弐斗七升五合 太田伊勢守湯立御初穂
一、 同六俵弐斗七升五合 佐藤伊与守 右同断
一、 同六俵弐斗七升五合 土田式部 右同断
寺社料〆米弐百四俵・四人扶持
 この分限帳によると、生駒藩御祈祷所十社に入っていた現矢島神明社は「神明堂」として、毎年米拾俵づつの扶持米を頂戴していたことがわかる。
 
(4)御殿様御在所日記抄の中から
 矢島の領主生駒氏は、初代高俊が矢島で死去したのは万治2年(1659)、二代高清が徳川四代将軍家綱に召され江戸に登り、弟俊明に二千石伊勢居地に分知、八千石交代寄合の席に列し、柳の間詰めとなって以来江戸詰めで、国元には藩主が還らなかったが八代親睦の代に至り、安永9年(1780)7月朔日、時の十代将軍徳川家治より参勤交代を許され、同年8月19日、121年ぶりで殿様がお国入りをし、その後代々国入りをした時の記録が「御在所御納戸日記抄」として残されている。そのいくっかを紹介する。
 安永9年8月28日(8月19日お国入りした殿様が早速神明を参詣している。)
   28日 雨 五つ時 天気 (晴)
 一、初めて御入部 御祭礼奉行 迎せ付けられ候に付き 御上下一具之を下さる。
                                            佐藤津守
 一、五つ半時(午前9時)神明・愛染御参詣 夫より龍源寺・広祐寺へ 御仏参御出で。
 一、神明へ  御太刀 壱腰 御馬 壱疋 代金 弐百疋
 一、愛染へ  御初尾 百疋
 一、龍源寺へ 白銀 壱包
 一、広祐寺へ 弐百疋 右下し置かれ候。
   八っ時(午後2時)御帰り遊ばされ侯。
 神明・愛染参詣しその3日後、殿様御国入りに合せ八朔祭を一ヶ月延期し執行されてい

る。

  九月朔日  天気不同
     ニ日  天気
一、両社(神明・愛染)御祭礼に付き、例年の通り御輿(御枠興といわなかったのか)
  通行、並に御行列相廻り候に付き、表御門へ入らせられ、御覧遊ばされ侯。
                                  右行列奉行 佐藤津守
一、笹子常学院兼て願いに付き、宮獅子召し連れ罷り上り、御祈祷申し上げ御札差上げ
  る。
一、御祭礼狂言これ有り侯に付き、御本供にて神明に入らせられ侯。
一、七っ半時(午後五時)御帰り遊ばされ侯。
     3日 雨 四つ半時(午前十一時) 天気
一、五つ時(午前八時)御飛脚兵助下着仕り侯。(江戸から兵助が帰った。)
一、九つ時(正午)より神祭の角力これ有り。御略供にて神明へ御出遊ばされ、七っ時(午  後四時)過ぎ御帰り遊ばされ候。
 初入部された殿様親睦公は、翌安永10年(天明と改元)5月出府することになり
    16日 曇
一、四つ時(午前十時)、神明・愛染・龍源寺・広祐寺へ御仏参に御出、八つ時御帰り遊ば
  され候。御香料金百疋龍源寺へ、御香料鳥目七拾疋広祐寺へ、御初尾弐拾疋づつ
  神明並に愛染へ。
とあり、入国時に参詣した神明・愛染と、龍源寺・広祐寺に、江戸に出府するための御挨の御挨拶をされていることがわかる。
 
 

九代親章公の初入部は寛政4年(1792)7月で、この年の八朔祭は半月遅らせたものとみえ、15日・16日・17日・18日にわたって次に様に記録されている。
 
    「親章公御在所御用部屋日記抄」
          八月
 
 
 
 親章公二回目の入部は2年後の寛政6年(1794)8月20日で、この年は一ケ月延期の九月朔日に両社の祭礼が執行され、狂言や角力が行われている。

 
    「親章公御在所御用部屋日記抄」
 
 
 
 
 十代親孝公代、文政12年(1829)の「御在所御用部屋日記」によると
  7月28日
一、椎川嘉藤太御祭礼奉行仰せ付けらる。
  八月朔日 快晴
一、御祭礼歌舞伎仰せ付けらる。
     2日
一、相撲これ有り。
11代親愛公の天保3年(1832)の同じく「御在所御用部屋日記」にも
  八月朔日 曇り未の刻(2時)より雨
一、中御殿に於て、諸士一統御礼申し上げる。
一、御神輿巳の刻(十時)御通行、御行列これ有り候。御跡乗 井上金吾
一、例の通り拝殿社地に於て、狂言これ有り侯処、雨天に付き延引相成り侯。
     3日晴
一、拝殿地内に於て狂言これ有り。
このようにお殿様が御国元に帰られた際の、八朔祭の様子が記録されている。
 
(5)安政三年御神輿御行列帳
 神輿が新調されて始めて弁天様に御下りになって後、町内をお巡りになったのは明和9年、それ以来かどうかは定かでないが、舘町の大井益二家に、安政3年(1856)の行列帳が保存されている。それを図の形に書き改めて紹介する。

安政三年御神輿御行列帳

 いまから144年前の記録である。奉納神楽や山車はまだで、御神輿中心の行列のようだ。姓名の町人13名、名前だけの町人139名、両郷の人足64人、修験僧社人など9名などで合せ225人、外に練子や社子などが加わり、更に御行列奉行の植村源造がひきいる押の一行が従うという300人を超す大行列であったことがわかる。
 御納戸日記抄や御用部屋日記抄によると、文政12年(1829)には椎川嘉藤太、天保3年(1832)には井上金吾、同五年には植村啓発が、それぞれ御行列御奉行を仰せ付けられており、毎年の記録は無いが、神輿が新調されてから9年後の安永9年(1780)親睦公初入部の際佐藤津守が御祭礼奉行を仰せ付けられて以来毎年八朔祭には、家臣に御祭礼奉行(御行列奉行)を仰せ付けられ賑々しく祭りが執り行なわれたと推察される。
 行列帳は、安政3年の行列帳のほかは明治34年迄欠けている。
 
(6)舘町記録帳乾(舘町大井益二氏所蔵)
 和綴じ堅帳64枚の表紙中央に「舘町記録帳 乾」、右に「元禄15年より文化2年乙丑迄」、左に「乾坤弐冊揃之内」「組頭大井幸左衛門扣」と記してある。
 幸左衛門は人井家五代目で光賭と称し、寛政8年丙辰3月7日生れ、江戸へ出て医業を学び、家業である酒造業を営む傍ら医者として、又、学問の師として貢献し、弘化2年7月12日49歳で没している。数多くの記録を書き残している。この舘町記録帳も古い記録から書き抜いたものであろう。
虫喰いで読まれない部分も有るが「八朔祭礼」と記された記録では一番古い年号である。
一、元禄十□壬午8月、八朔御祭礼雑用壱人前25文(元禄壬午は15年である)
   づつ田中町 36間(軒)割付  〆900文
      舘町  54間割付  〆1〆350文
      舘町組頭  与治平 喜右工門 善兵衛 市左工門
      田中町組頭 弥右工門 権之丞 勘右工門
 この記録により、元禄15年(1702)、いまから298年前すでに田中町と舘町によって八朔祭が行われていたことが明らかで、殿様は三代親興公の時代である。
 初見の元禄15年より49年後の、宝暦元年(1751)この記録に
 一、宝暦元年辛未7月12日、右京様御逝去遊ばされ侯に付き、禁断にて八朔祭礼相  止む。とある。
 右京様とは、五代生駒親猶公の二男親茂のことで、六代親賢公の弟20歳で亡くなる。
 明和の前に次に目を引くのは明和9年(1772)御神輿到着時の記録である。
  一、6月11日、御輿(御神輿)御下り、塩越(象潟)迄両町(田中町と舘町)人足にて御   迎えに行き、両町親方衆(庄屋・用達・宿老)組頭中残らず八坂迄御迎えに出、尤も   金子文之進様御出で、土屋吉兵衛宅(田中町庄屋)に御輿搬入、則13日に吉兵衛   方より神明様へ御入れ、此節、愛染様拝殿にて金剛院加持有り、夫より神明様に御   移り遊ばされ侯。八月朔日朝七ツ(午前四時)、新丁弁天様に御下り、夫より七日町・   田中町・御家中・新町・舘町相廻り、金剛院へ御入り、初めての事故御行烈内習等   殊のほか賑々敷き事に御座侯。とある。
 御輿が出来て8年後安永9年(1780)、殿様はじめての御町入りの年の記録には、   一、7月初方田中町より申し参り侯は、当年殿様御入部に付き、御祭礼年番に御座   侯得共、狂言は年番故此方にて相勤め申し侯、御輿御行烈は御世話頼度き由、組   頭惣右工門・三郎左工門方へ参り、此方中問(大井家の中間)相談に及び、御輿世   話致し可き由7月11日、土屋吉兵衛(田中町庄屋)殿宅に御用にて寄り侯節、右挨   拶致し侯。
 安永10年(4月に改元、天明となる。)の記録には次のようにある。
  一、御祭礼田中町にて申し侯は、当年舘町にて勤め侯得ば明年田中町へ相当り申し   侯。左侯得ば殿様御入部の砌計り相当り申し侯間、当年と続き相勤め侯て舘町へ   相渡し申す可き由中す事に御座侯間、其の意に任せ2年づつ相勤め侯筈にいたし   侯。子丑の年田中町にて相勤め、寅卯の年舘町にて相勤め申す可く筈。
 この様に神明社の祭典は記録で知る範囲では、元禄15年(それ以前は不明)以来田中町と舘町が交互に年番とし、その年の事情で変ることも明らかである。
 年代はさかのぼるが、安永4年(1775)12月6日の晩、個人の物置に預かっていた御祭礼の装束が盗難にあった記録も残されている。

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