第一章 神明社と八朔祭の変遷 |
第一節 矢島町の概況 |
1.地理的環境 |
矢島町は秋田県の最南端(ほぼ中央役場の位置、束経140度14分・北緯39度8分)に位置し、西南部は2,236メートルの秀峰鳥海山を境に山形県に接し、東北部は鳥海山に相対する722メートルの出羽丘陵の八塩山があり、東由利町に接している。 |
鳥海山を源とする丁吉川は鳥海町より流れ、湖成段丘に囲まれた矢島盆地を南東方向より蛇行し、ほぼ町の中央部を南北に貫流し由利町を北上し日本海に注いでいる。 |
矢島町の総面積は123.63ku、東西に12.8km、南北18kmの逆紡錘型の複雑な地形をなしており、耕地は標高25mから400mにあり、耕地面積は総面積の14.1%の17.4kuである。 また、気象状況は、平均気温は11.2℃で、最高が8月の30.6℃、最低が1月の-3.7℃と寒暖の差が激しく、降水量は年平均2,038mm多雨地帯に属している。 |
2.歴史的背景 |
本町の発祥は古く、平安時代に烏海山の修験者によって拓かれたという伝承があり、美濃国(岐阜県)可児郡土田村より比良衛・多良衛の兄弟が出羽国に降り、後、嘉祥3年(850)6月15日を期とし、鳥海山の東北麓から山頂への小径を開創し、荒沢の邑に住して田畑を開墾して世々業となす。と「開山神社縁起」にあり、現在も荒沢郷を中心に「前鬼末喬」と称してその子孫が住んでいる。また、俗に「チョウハンテェ」と呼ばれている現在の「鳥海高原矢島スキー場」附近の、海抜400mの高地を、長保年間(999〜1004)に開拓し、定着農耕を始めたと伝えられ、その子孫の高橋家が戦後迄、その地で農業を営んでいたが今はいない。 |
修験に関しては、聖宝尊師の法燈をうけ継いだ当山派の達識である仁乗上人が、直接木境逆峰修験道場で生活を共にした体験に基づいて書かれたと思われる「鳥海山大権現縁起」がある。その巻末には「明徳二辛未暦応鐘吉日・仁乗上人作之」とあり、その中に「仁王56代清和天王朝、貞観12年(870)庚寅、醍醐の聖宝尊師(諡号理源大師)津雲出之郷より再興給う、矢島の峰中是也。清和天王御願の勅定に依て鳥海山宝珠山浄瑠璃寺と申し奉る也。其時より逆峰の修行は聖宝の遺法にて東寺流(東密)也。是また清和天王の勅定也。」とあり、以来逆峰修験の流れが伝承され、いまでも秋峰修行が期間は短くなっているが修験の子孫である神主等によって継承されている。 |
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大井五郎満安公墓碑 |
中世に人り奥州平泉・藤原氏の頃(1100年代)には、由理氏がこの地方を領したと各町史などに記されているが、平泉藤原氏滅亡後鎌倉幕府に仕えた由理氏が、建保元年(1213)鎌倉和田の乱で謀叛の疑いをうけ所領を没収され、信州小笠原の出である鎌倉幕府の女官大弐局にこの 由利の地が与えられ、その後、由利の地頭職は小笠原一族へ受け継がれ、さらに北条得宗家によって所領が握られたと考えられる。 |
やがて、幕府の滅亡と建武の新政、更には南北朝の内乱と続く混乱の中で、様々な出自を持つ国人達が、地域的にその勢力を伸し、この本荘由利はいわゆる十二頭衆と呼ばれる小豪族が割拠して抗争を繰り返していった。この十二頭衆の中で、わが矢島を領したのは信州小笠原氏の一族で、大井氏と称し初代義久・義満・満安(義久・光久・義満・満安と四代とも)と続く、三代五郎満安は抜群の豪傑で、永禄3年(1560)の滝沢氏との対戦から実に33年間たびたび近隣の者どもと闘い、終始その豪勇ぶりが、愛馬八升栗毛の名と共に語り継がれている。 |
最後は仁賀保以下の連合軍に敗れ西馬音内の舅のもとに逃れ自害して果て、矢島の地は仁賀保氏の領となる。やがて徳川氏の天下となり諸大名の整理が進み、十二頭衆も解体されて慶長7年(1602)由利郡は山形の最上義光の部将であった楯岡豊前守満茂(後の本荘豊前守)の領となり、その弟の長門守満広が矢島の主となった。 |
しかし、元和8年(1622)最上氏が御家騒動により所領を没収され、翌9年、打越氏が矢島三千石の領主となるが、寛永12年(1635)、2代目打越左近か死に後継ぎ無く、矢島は一時庄内の鶴岡藩の預かりとなるも5年の後、寛永17年(1640)讃岐から移封された生駒氏を迎えるという、実にめまぐるしい変遷を重ねたのがわが矢島の中世の後半である。 |
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八森城址 |
近世の領主生駒氏、讃岐初代親正は、彼の織田信長・豊臣秀吉に仕えて武功があり、讃岐17万1800石の領主となり、秀吉の三中老の一人であった。その子一正、孫正俊と代がかわり、4代高俊の代に家臣間の対立が起り、不幸にも幕府の裁判にまで発展したため高俊は家中不取締りをとがめられて讃岐一国を没収され、堪忍料といういわばお情けとして矢島一万石を与えられ、寛永17年8月19日塩越に下着、八森の館に住み、約20年間の謹慎生活を送って死に、2代高清は伊勢居地(旧小出村)二千石の地を弟俊明に与え、八千石交代寄合となり、2代高清から7代親信までの歴代藩主は江戸勤めで、その間、延宝5年(1677)の笹子仁左衛門の一件など不辛な事件があった。 |
8代親睦が将軍から帰国を許され、安永9年(1780)8月19日、120数年ぶりのお殿様御国入りとなり、以後参勤交代で領民が藩主に接する機会が得られるようになる。 |
藩制期の矢島(現矢島町)は、田中町と舘町が町奉行の支配下におかれ、村方は前郷と向郷に二分され、各々大名主のもと、前郷は七日町村・城内村・荒沢村・須郷田村・九日町村・新所村・新町村・金ケ澤村・小板戸村の9カ村、各村に名主一名が、更にその下に組頭が各村数名いた。向郷も同様で、坂之下村・新庄村・中山村・八杉村・杉沢村・川原村・木在村の7ケ村で、各村名主一名に村毎組頭数名がいた。 |
又、宝暦8年御領分中覚書によると、前郷の本田高2258石、同新田高百89石2斗3升6合、家数353軒、人数1520人内912人男・623人女とある。向郷の本田高1963石4斗8升3合、同新田高231石8斗3升2合、家数297軒、人数1458人内876人男・582弐人女とある。(町方は不明) 幕末の烈しい藩論を、若い藩主親敬公がこれを統一し菊章の御旗拝領して戊辰を戦い抜き、明治2年(1869)、藩籍を奉還して矢島藩知事に任命され、同4年(1871)廃藩置県が断行されて矢島は秋田県に統合された。 |
明治21年(1889)、市町村制が公布され、矢島町(家中)・田中町・舘町・七日町・城内・川辺・元町・荒沢・坂之下・新荘・立石・木在の12カ町村が合併して、新しい矢島町が誕生し、以来他町村との合併をすること無く今日に至っている。 |
3.文化的環境・信仰的基盤 |
魚形文刻石(俗称・鮭石) |
最近青森市の三内丸山遺跡や、本県鷹巣町の伊勢堂岱遺跡などの発掘調査によって、縄文時代像の塗り替えが大きな話題になっているが、本町にもそうした縄文人の遺跡と見られる個所は、県指定の魚形文刻石(俗称・鮭石)の出土した前杉や、木在字八森の開墾台地・荒沢字根城などが有るが、本格的な発掘調査は実施されていない。県有形文化財(考古資料)指定の「魚形文刻石」は、出貴土例の少ない重な文化財である。 |
有史時代に入り、前半は文書や遺跡・遺物も無く定かでないが、信仰的面では東北地方全般が鎌倉幕府の支配下に入り、関東武士等の移住により守護神としての氏神信仰が広まり、また密教信仰として修験の活躍が活発となり、真言宗当山派醍醐寺三宝院の支配下にあった鳥海修験の、加持祈祷・護符の配布や参拝の手引きなどが町内の隅々まで浸透していったものと推察される。 |
戦国時代の末には由利地方の国人共の相克が烈しかったが、信州佐久地方の小笠原氏の一族であった大井氏が亡び、近世に人り、楯岡・本多・打越更には庄内鶴岡藩預かりと領主の変遷がめまぐるしかった矢島だが、寛永17年(1640)西国大名の生駒氏が入部、従来の住民との融和政策と高い教養を持つ藩主の下で、矢島は小地域ながらも独自の風格をそなえたようで、昭和の初期迄、言語風俗とも独特の上品な風が残っていたものだった。 |
江戸幕府は、切支丹を禁止し、その取締りに宗門改めを実施、全戸仏寺の檀徒となしたが、神仏の習合は認め、その実態例は宝暦年間にまとめられた「御領分中覚書」に、各村々毎に、一、御菩提所○○寺、一、御祈願○○院一修験一、一、○○堂・○○宮など、その主名などが記録されている。尚覚書中の神明宮については第二節に記す。 |
明治維新政府は天皇の神権的権威確立のため、祭政一致をスローガンに従来習合していた神道と仏教の分離を図る政策をとり、排仏毀釈の運動がおこるが当町内の実態は不明。 |
『秋田県近代総合年表』(無明舎出版発行)によると、明治2年4月8日「矢島藩.神仏調査実施」と記載されているが、その記録は残されていないので実態は分らない。同年冬11月の「矢島郷別当復飾之控」が、姉崎岩蔵著「鳥海山史」に紹介されている。敗戦後は、神道指令が発せられ政教分離政策が進められ安心立命を祈る場としての鎮守の祭りまでもが空洞化されつつある中で矢島神明社の八朔祭りは、氏子の深い信仰心に支えられ、これが継承に力が注がれている。 |