明治十九年の世相
 
 この辺で、本当は呂泣のことに戻りたいのですが、実はこの時期の呂泣のことは追跡しようにも史料がほとんどないのです。そこで、もう少し呂泣・湖南を取り巻いていた、明治二十年前後のことを紹介してみましょう。
  
 湖南は上京すると神田小川町に下宿しました。幸いにも、そのころの神田を写した写真を紹介することができます。これは、御茶ノ水に建設中だったニコライ堂から神田方面を俯瞰したもので、小川町はこの写真の上部かあるいはその先にあたると考えられます。このころの神田はまさに東京の中心地でした。ランドマークといえば、小川町よりもさらに先に見えるはずの招魂社(靖国神社)の大鳥居か建設中のたまねぎ型のニコライ堂くらいのものでした。当時のことを田山花袋は「その時分は、大通りに馬車鉄道があるばかりで、交通が不便であったため、私たちは東京市中は何処でもてくてく歩かなければならなかった」と書いています。(『東京の三十年』 岩波文庫)
 
 呂泣の住所は不明ですが、芝の攻玉社に通っていたことや湖南と行き来をしていたことを考えると、呂泣もまたこの界隈に住んでいたであろうことは大いに考えられます。
 
 呂泣が上京した明治十九年は、どうも世相的には明るさのなかった年のようです。この年はコレラの大流行した年で、死者は確か一万を超えたはず。東京のように人家が密集していたところでは罹災率も高く被害も甚大でした。人々は戦戦兢兢として暮らしていました。
 
 いっぽう、経済的にも十九年は不景気な年でした。十八年末に発足した伊藤博文内閣―日本初の内閣―は、その手始めに行政改革を行い、人員の削減を大胆に行いました。しかし、これによって離職を迫られたのは下級官吏であり、彼らの多くは旧幕時代の御家人もしくは非薩長系の人たちでした。
 
 たとえば、小田原の出身北村透谷は明治十六年春、「生は早稲田なる東京専門学校に入塾したり」と書いてその喜びを表しましたが、十九年の行政改革によって透谷の父は「非職扱い」となり、四十円の給与は三分の一に減給、透谷は早稲田をやめざるを得なくなっています。同じことは国木田独歩にも起こりました。播州龍野藩士だった独歩の父は維新後裁判所の職員として働いていましたが、独歩の父もこの行政改革で「非職扱い」となり、四十円の月給を十三円に減らされています。独歩もまた早稲田を去りました(のちに復学するものの再度退学)。ただし、独独歩の場合、やめた理由は勉強不足も大きな理由でしたが。
 
 呂泣は、透谷とのちに箱根で出会い、さらに透谷が自殺したあと透谷の住んでいた家に住む奇縁をもつことになります。また、独歩と呂泣は日清戦争のとき、派遣報道員として韓国に渡るという共通の経験をもつことになります。
 
 十九年十月二十四日。ひとつのニュースが日本人を愕然とさせました。英国船ノルマントン号が紀州沖で沈没し、船長をはじめとする英国人が救出されたにもかかわらず、日本人乗客は全員溺死と報じられたのです。船長らは責任を問われて裁判になったものの、「救命ボートに乗り移るよう勧めたが日本人乗客はことばがわからなかった」という船長らの説明が容れられて乗組み員は全員無罪、再審で船長に有罪が宣告されたものの、判決は禁獄三ヶ月という軽いものでした。
 
 当時日本には外国人に対する裁判権がなかったため、裁判は英国領事のもとで行われました。この不平等裁判に世論は沸騰し、改めて幕末以来の不平等条約の改正問題が急がれることとなり、反面、政府のこれまでの欧化主義が批判されることとなりました。
 
 以上が明治十九年・二十年の世相とするなら、伝えておきたいもうひとつの側面は思想状況のことです。呂泣が上京した十九年はまた、二十年代の思想界を政教社と二分した民友社の領袖徳富蘇峰が東京での成功を期して一家を挙げて上京した年でもありました。
 
 以上第四回分まで。以下、次回に回します。2002年9月28日記。
 

 『図説中央大学1885→1985』「ニコライ堂より見た神田の景色」

 

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