徳富蘇峰
  
若き徳富蘇峰(23歳)」 高校の日本史の教科書(山川出版社)
に掲載された雑誌「国民之友」と「日本人」
  
 徳富蘇峰をなんといって紹介しましょう。
 
 明治維新から戦後を経て高度経済成長期まで近代日本と並走し続けたジャーナリストとでもいうべきでしょうか。民権運動時代にあっては薩長藩閥政治を批判し、日清戦争以後の帝国主義時代にあっては国権主義者となって政府に加担し、戦後はA級戦犯とされ高齢を理由に自宅蟄居を命ぜられたが、「百敗院泡沫頑蘇居士」とうそぶき、五十六歳(1918)のときから書き始めた修史を孜々として書き続け、昭和二十七年九十歳になって完成させました。全百巻五万ページを越える『近世日本国民史』がこれです。こうした蘇峰の経歴からでしょうか、『近世日本国民史』は、現在の民主国家日本にはふさわしくないと文献界では隅に追いやられて、古色蒼然たる装丁にもかかわらず古本屋では一冊五百円も出せば手に入れることができます。しかし、口に出そうと出すまいと、多くの歴史小説家が自分の小説の下敷きに蘇峰を置いていることは事実で、歴史小説を読む人は間接的にですが、蘇峰の書いたものを知らず知らず読んでいるといえます。
 
 蘇峰は総理大臣桂太郎の大部二冊になる伝記をはじめ多数の伝記をも書きました。し
かし、今日に至るまで蘇峰その人の伝記はありません。彼の人生は長く、業績は多く、思想は多岐にわたり転変したために、伝記を書くことのできる人物が現れないでいるのです。それはさておき、呂泣が東京で暮らした十年間はまた、蘇峰が平民主義を唱えて国民の耳目を大いにとらえた十年間でもありました。
 
 呂泣が上京したと思われる明治十九年七月、蘇峰徳富猪一郎は『将来之日本』の原稿を携えて故郷熊本から上京しました。この年蘇峰二十四歳。三度目の上京でした。
最初は十四歳のときで、熊本洋学校が廃止されたとき。生徒であった蘇峰は東京英語学校に入学しました。同級生に新渡戸稲造、内村鑑三などがいます。この学校は翌十年に発足する東京大学の予備校(英語で教える大学の準備をするところ)で、そのまま在学していれば東京大学に進学していたところでした。しかし、蘇峰は東京英語学校には二ヶ月と通わず、キリスト教的教育をする同志社に鞍替えして京都に去ります。余談ながら、新渡戸、内村たちも東京大学には行かず、クラークに共鳴して札幌農学校に進学しました。
 
 二度目の上京は同志社を終えた明治十三年のこと。ジャーナリストになろうと当代の健筆家福地桜痴などを頼りますが果たせず、熊本に帰り塾を開きました。
 
 三度目の上京を果たした蘇峰は、すでに面識のあった田口卯吉をはじめ、島田三郎、
大隈重信などを訪れて、『将来之日本』示し自説を論じました。そして、田口の認めるところとなり、田口の主催する『東京経済雑誌』によって出版されました。この本は、ひとことでいえば、これからの日本は自由元気を基にした平民社会でなければならぬというものです。この考えの下には十年代を謳歌した民権思想と平民主義を押さえつけている薩長藩閥政府批判がありましたから、たちまち国民の容れるところとなりました。
 
 蘇峰は機を逃さず、そのまま東京に居すわって家族を呼び寄せ、翌明治二十年二月、民友社を設立、同月十五日に「嗟呼、国民之友生れたり」と冠して『国民之友』を発刊しました。平民主義を掲げ、薩長藩閥政治を非難しながらも、必ずしも政治主義一辺倒に走らず、表紙には「政治社会経済及文学之評論」と銘打って、総合雑誌であることを打ち出しました。
 
 いま、その寄稿者の主な名前を列挙しても、田口卯吉(『日本開化小史』、 明治の新井白石と呼ばれる)、中江兆民(『民約論』、東洋のルソー)、矢野文雄(『経国美談』)、新島襄(同志社を創立)、福地桜痴(幕末から明治の初め福沢諭吉と学才を競った。歌舞伎座を作る)、植木枝盛(私擬憲法を案出)、島田三郎(横浜毎日新聞社主、私娼窟廃止運動家)、尾崎行雄(憲政の神様)、内村鑑三(日露戦争時の非戦論者)、新渡戸稲造(もうすぐなくなる五千円札のモデル、とはおふざけで、『武士道』で日本を世界に紹介)、片山潜(労働組合運動の父)、金子堅太郎(明治憲法の起草者のひとり、専修大学や日本大学の創立に寄与)、井上哲次郎(東京大学哲学科教授、天皇主義的な教育勅語の解釈を論じた)、梅謙次郎(明治民法典の作成に寄与、法政大学学長)、坪内逍遥(早稲田大学文学部を創立、シェークスピアの翻訳者)、森鴎外、二葉亭四迷のほか、蘇峰もそうでしたが、小崎弘道、植村正久、金森通倫、安部磯雄、浮田和臣などキリスト教者を数えることができます。なお、カッコに示した説明は蛇足というべきもので、かえってその人物の経歴を誤らせるおそれのあるものですが、まずは理解の一助にと示してみました。
 あえて、読者の退屈をも厭わず、少なからざる人物名を列挙したのは、同じ神田の内にあって、これらの人たちが出入したであろう民友社の向こうを張った政教社に呂泣が籍を置いていたことを知ってもらいためです。
 

 かくて、国民之友は発刊されるや一大センセーションを巻き起こし、当初千部の発行数はたちまち七千五百に駆け上り、まずは一万台を維持、日清戦争終了時にはいっとき三万部に達するという売れようでありました。 

以上平成14年10月17日記

 
 

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