リッチな呂泣 
 
 さて、神田小川町に下宿を見つけた湖南は、さっそく呂泣に会いました。そして呂泣の派手な生活ぶりに目をみはりました。
 
 其の初めに当たりて資に乏しからず、悠々読書、財を用いること土の如し 
 
 ゆうゆうと本を読んでばかりで、働いてもいないのにお金は土くれのように使い捨てている。
   
 当時の呂泣の生活ぶりは湖南にはこのように映りました。
 
 もっとも、この印象は湖南が上京したばかりで、財布には向こうひと月分の生活費もないというころの印象ですから、文字通りに受け取るわけには行きません。しかし、このころ呂泣が竹内家の支援を受けて、食うに困らない生活をしていたことは確かでしょう。
 
 野心のある青年にとって、金と女と名声はのどから手のでるほど手に入れたいものでしょうが、反対にそれがある程度満たされてしまえば、スポイルされてしまうというのも事実です。名声はさておき、恋人をもち、お金の心配のないことが、多感な呂泣を勉学から遠ざけたであろうことは容易に想像されます。
  
 このころの呂泣のことを教える史料はなにもないのですが、大曲の竹内チヨとの間に明治二十年に男子、二十三年に女児、その翌年にまた女児と三人の子をなしているという事実が残っています。想像するに、呂泣は東京で英学に励むとはいいながら、実際はしばしば大曲を訪れ、あるいは竹内家に居続けたのではないでしょうか。
 
 雑誌記者を始める一方、湖南もまた英語の勉強を始めました。築地にすむ外国人のところに通いました。これは三年ばかり続きました。さらに国民英学会にも通っています。これは神田にあった英語学校で当時おおいに繁盛していました。ここには湖南のややあとに、中江兆民に英語を学ぶことを勧められた幸徳秋水が学んでいます。兆民は知られているように「東洋のルソー」と呼ばれ、フランスに留学した人でしたが、彼に師事した秋水には英学を勉強するよう勧めていました。それほど英語は当時の人々にとって重要なものだったのです。寄しくも、のちに―呂泣が亡くなった年から二年間―湖南と秋水は万朝報で机を並べて働くことになります。
 
 

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