5.明治二十年 東京
 
大内青巒
 
 湖南が記者となった『明教新誌』は仏教雑誌でした。月給は八円。東京でひとり下宿生活をするにはなんとかなる金額です。もっとも、湖南のこの給料にかつての師範時代の同級生がなん人もたかってくることになりますが。
 
 湖南が『明教新誌』の記者になったことは、湖南が東京での生活の糧を得たということに留まらず、呂泣にとっても重大な意味をもちました。湖南を採用した大内青巒はこの時代の知識人脈のサークルの中心に位置していた人でした。湖南も、そして湖南の導きで呂泣も、このサークルの輪の中に入っていったのです。
 
 大内は仙台の人。湖南が会ったころの大内は四十台半ば。人格形成期は江戸時代でした。当代一流の学者大槻盤渓に学んだあと、仏教に関心を寄せました。知られているように明治に入ると、仏教は国家宗教の地位から外され、それどころか廃仏毀釈運動にさらされ、一大危機の時代を迎えていました。仏教側でもこの危機を乗り越えるために、あたかもヨーロッパでカソリックがプロテスタントの攻勢を受けて自らも再生運動を起こしたように―フランシスコ・ザビエルが極東の国日本にやってきたのはその運動の一環でした―自己再生のための改革が行われました。こうしたなかで、大内は最大宗派である浄土真宗のリーダー大谷光尊の侍講(アドヴァイザー)になって仏教改革の一端を担いました。
 
 大内は仏教以外にもさまざまな社会改良に熱意をもちました。小野梓、馬場辰猪、金子堅太郎といった欧米留学生らと交わって、欧米思想を流布する『共存雑誌』の編集責任者になったほか、とくに教育関係に足跡を残しています。ここでは東洋大学の学長であったという一面を紹介して他は割愛することにしましょう。
 

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