3.内藤湖南

 
 先に、呂泣の一大人生の転機になる事件といったのは、ストライキ事件で名を馳せたというよりもむしろ湖南、内藤虎次郎との出会いのことです。呂泣の才能をだれよりも早く発見し、高く評価したのはストライキ事件のもうひとりの立役者湖南内藤虎次郎でした。のちに京都帝国大学教授となり、東京帝国大学教授白鳥庫吉とともに、「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と並び称され、支那学=東洋学を二分した虎次郎は、ストライキ事件をきっかけに呂泣を知り、以後呂泣が亡くなるまで、ときに兄としてときに弟として、友人以上の関係を結びました。  
 
 湖南は県北鹿角の毛馬内(けまない)の出身でした。父は元南部藩士。内藤家はもともと学問の家柄でしたが、維新以後は尾去沢鉱山の書記となり、また小学校の先生も勤めました。生活は決して楽ではなく、ために虎次郎を秋田中学に入れることなど念頭になく、師範も修了年限が二年半と短い中等科を選ばせました。湖南は編入試験を受けて呂泣のいる高等科に転じたのです。  幼年のころから父の元で鍛えられた湖南の学力はすばらしく、文系の学科は師範でも改めて習うこともないほどでした。泣きどころは算数と理科で、師範始まって以来の秀才といわれながら、主席で卒業していないのは理数系が振るわなかったからです。呂泣にとって湖南と出会ったことが事件なら、湖南にとっても呂泣を知ったことは事件でした。湖南は父への手紙のなかで呂泣のことをこう紹介しています。
 
 この間同級生岸田吉蔵と申す者と相談、中学教員森某へ英学稽古に参る事に決め候。岸田 は私と同学年にて気節学問文章といい舎内一等の人物にござ候。(中略)私とは無二の親しみにて何事も両人とも心底打ち明け談合致し合い候。右は矢島人なり
 
 思えば、ふたりの故郷である矢島と鹿角は、地理的にも文化的にも周辺から断絶されたところでした。鹿角は、もともとは南部藩領で、南部藩が戊辰戦争で幕府方についたために 秋田県 に組み入れられたところです。一方、矢島はといえば、いうまでもないことながら、三百五十年のむかしに生駒氏がお家騒動のために減封移封されて西国からはるばるとやってきたところ。どちらも陸地にあってなお島であるような、周辺から孤立した土地柄でした。ふたりはそうした閉塞感から抜け出して、もっと広い世界を自由に飛びまわりたいと願っていました。
  
 

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