秋田師範・ストライキ事件
 
 呂泣が入ったのは、秋田師範の高等科でここは四年制でした。ほかに初等科中等科があり、いずれも小学校の先生を作る学校でした。校舎は秋田中学と共用で半々に分けて使っていました。師範学校は寄宿舎制でしたから呂泣も寮から学校に通っていたのでしょう。高学年になるにつれて頭角を現した呂泣ですが、最初のころの成績は十番前後、さほど注目を集めるというほどのものではなかったようです。呂泣に人生の一大転機となった事件が起きたのは、三年生になったばかりのことでした。
 
 秋田師範の新校舎の完成にあわせるかのように東京から滝沢という新任の校長がやってきました。新校長は、全国にひとつしかなかった高等師範学校を卒業したばかり。歳も二十七と若く、教育後進県であった秋田に大いに新風を吹き込もうと意気込んでいました。
 
 桜が散り青葉が芽吹く五月の初め、秋田では戊辰戦争で亡くなった人たちを悼む招魂祭が毎年行われていました。この日は師範学校も授業は休みで、生徒たちはお祭りを見に行くのを楽しみにしていました。呂泣もまた級友と語らってはその日の来るのを楽しみにしていました。ところが、滝沢校長は、教育は一日もゆるがせにできないという信念のもと、生徒たちに招魂祭の日も平常通りの授業を行うと伝達しました。そして、授業をサボって招魂祭に出かけた生徒を退学させたのです。ここに、お祭りに休むのはこれまでの慣行だと主張する生徒と、教育方針に新機軸を打ち出そうとする滝沢校長との間で紛争が持ち上がり、生徒たちはストライキを強行して校長に対抗しました。
 
 このとき、生徒側の先頭に立って滝沢校長に食ってかかったのが呂泣でした。呂泣十八歳、校長と生徒とはいえ、双方ともに若年若輩の身、思うところを主張して譲りませんでした。対立は「秋田師範の生徒ストライキ事件」として新聞にも取り上げられ、「生徒、校長を凹ます」と報じられました。呂泣ら生徒たちは、校長と談判する一方、県にも自分たちの主張を文書にして提出しました。そして、この文書を作文し浄書して提出したのは、中等科から転科してきたばかりの内藤虎次郎でした。事件は、当時としては異例のかたちで解決することになりました。呂泣や湖南たち、生徒側の主張が認められて、滝沢校長は秋田師範から他所へ転出するということになったのです。呂泣ら生徒たちの感奮たるや思うべしです。
 
 呂泣のことを「校長排斥運動の立役者」と紹介すれば、どこの学校にも必ずひとりやふたりはいるはみ出し屋のトラブルメーカーと考えがちですが、呂泣はそれとはひと味もふた味もちがっていました。第一に、勉強方面の落第生ではありませんでした。青江舜二郎の『竜の星座』では、呂泣は秋田師範を首席で卒業したことになっています。これは、史料的には疑問符を打たざるを得ませんが、千葉三郎の『内藤湖南とその時代』では三番だったとあります。呂泣の代の秋田師範の卒業者は五十三名。県下の秀才を集めた師範でも呂泣の成績は第一等のものであったことはまちがいありません。それでも、呂泣の反骨振りはときに職員会議の議題になったようです。退学処分をという声もあったのですが、呂泣を庇護する声もあり、結局呂泣は特選生徒委員に任命されるという一幕もありました。学校側にとっては、呂泣の破天荒振りを責めるよりも彼がストライキで示したようなリーダーシップに期待する方が得策だったのでしょう。
 
 

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