1.矢島学校
 
 呂泣は幼名を岸田吉蔵といいました。旧八森城のふもとの館町を水上の方から下ってくる長い坂の中途に呂泣の生家はありました。岸田家は、主にろうそくを扱い、いっときは殿様の御用をも勤めるほどの商人でしたが、明治になってからは振るわなくなっていました。 呂泣が生まれたのは明治維新の2年前。戊辰戦争では、矢島藩は当初から官軍側に立って戦ったので、佐幕軍の庄内藩に攻め込まれ、八森城と館町一帯は焼き討ちに会いました。幼い呂泣の耳目にも炎が家々を舐める様子が映り、砲弾の飛び交う音が聞こえてきたことでしょう。 明治五年、全国に学校を作るべしという『学制』が発布されると、矢島では翌年に早々と『矢島 学校』が生まれています。場所は現在の矢島小学校のあるところ。旧陣屋を転用したもので、『御殿学校』とも呼ばれていました。発足のころは、まだ藩政時代の面影を宿し、戊辰戦争のときの内軍との戦いの跡が生々しく残っていました。校舎玄関の入り口には左右に高張ちょうちんが立てられ、敷地には大砲小屋も残っていて、ドイツ製のクルップ砲が三門、砲身を鎌首のようにもち上げていたそうです。始業終業のときは陣屋の太鼓をドンドンと敲いて知らせていました。 発足時の教員数は七名、生徒数は五十名。この規模は、教員数で較べれば明治六年中に創立された県下六十校のうち最大のものでした。教員数一名の学校が半分以上でしたから、矢島町が教育にかけた期待は大きいものでした。 この矢島学校に呂泣が入学したのは明治九年のこと。すでに生徒数は百七十名に達し、校舎も増築が行われていました。下等科(四年制)だけで出発した矢島学校は、呂泣が在校していた十二年には新たに高等科(二年制)が設置され、地域の主幹校の体裁を整えていきます。 この当時、小学校とはいえ高等科を出るということはなかなかの高学歴を意味しました。制度としては小学校の上には中学校があり、その上には大学があったのですが、実際のところでは、県下に中学校はひとつ(秋田中学)だけ、大学は東京大学ひとつだけというものでした。
 
 付けたりに、東京大学は明治十年四月の発足。東京帝国大学としかめつらしい名称に変わるのは明治十九年からのことです。また、県下の中学校では明治六年九月に秋田中学が「秋田洋学校」として発足。その後、三十一年に横手、三十二年には大館に尋常中学校が発足しました。それぞれ現在の横手高校、大館鳳鳴高校のことです。本荘中学(本荘高校)は県下第四番目の中学として三十五年に発足しています。また、矢島高校の前身は明治四十年に発足した農業補習学校までさかのぼることができます。
 
 矢島学校の教員は、当初すべて藩校の日新堂で学んだ人たちでしたが、その後、制度が整うにしたがい、教員の研修が行われるようになりました。これを行ったところを秋田県伝習学校といい、研修期間は三ヶ月でした。呂泣が教わった先生のなかにも、伝習学校で研修を受けた先生がいました。なかでも伊東忍という人は、教員に採用されたときの年齢が十六歳と、矢島学校の教員のなかでは最年少で、呂泣たち生徒にとっては、兄のような存在だったと思われます。伊東は才気煥発な呂泣に、師範学校(伝習学校)なら月謝なしで勉強できるぞと教えたのではないでしょうか。伝習学校の方もおいおい制度が整い、名称も秋田師範と変わり、学業期間も二〜四年と変わっていました。 師範学校がある、そこなら官費で通える。そう聞いた呂泣は小学校を卒業すると矢もたてもたまらず、家出をして秋田に向かいました。本荘からは船で秋田へ向かいました。ところが、着いてみると馬で先回りをしていたおじさんに捕まって矢島に連れ戻されてしまいます。しかし、おじいさんが呂泣の熱意を汲んでくれて進学を許してくれました。
 
 付けたりに、伊東忍は士族籍を返上した新思想の持ち主として、呂泣が矢島学校に入学した年に新聞(遐爾新聞―秋田魁新聞の前身)に紹介されています。  矢島町士族・伊東忍サンハ常ニ新聞紙ヲ読ミ華士族平民の等差ヲ廃スベキ論・其ノ他之 ニ類スル説ヲ然リトシ。此ノ頃民籍編入願ヲ差出サレタルニ御聞届相成タリ
 
 伊東忍は呂泣の卒業を待たず明治十二年に上京、府下の小学校に勤務したのち、司法省法学校に入りました。この学校は伊東忍たちの学年を最後に東京帝国大学に吸収され、帝大卒業生だけに与えられていた無試験免許代言人(弁護士)資格を得て、福島、北海道で弁護士・判事を歴任、昭和二年帯広で亡くなりました。『矢島町史』は「珍しい平民希望の人 伊東忍」と題して彼を顕彰しています。  (この項、今野銀一郎氏のレジュメ『士族を返上・平民願い出た伊東忍』を参照しました)
 
 

戻る   次へ