矢島の人 畑山呂泣
 
はじめに
 
 日本が初めて憲法を制定し議会を開いて、近代国家として世界に乗り出した明治二十年代、ふたつの雑誌によって国内のジャーナリズムは二分されていました。西洋思想を謳歌し平民主義を鼓吹する民友社の『国民之友』と、日本の個性を顕彰し国粋思想を標榜した政教社の『日本人』のことです。このうち、『日本人』は欧化政策をとる政府から弾圧され、しばしば発行禁止処分に処せられました。政教社はこれに対抗するために、『日本人』が発禁になったときには、名前を変えたもう一冊の雑誌―『亜細亜』―を発行しました。この『亜細亜』の編集発行人になったのが畑山呂泣でした。本名は畑山芳三。矢島の人です。
 
 畑山呂泣は、政教社の総帥三宅雪嶺の論文を代筆することによって認められ、自らも『日本人』『亜細亜』に論陣を張り、編集責任者として投獄され、若くして病に倒れました。また、政教社に集まった当代の論客たちと親しく交わり、とくに東洋史学の権威となった内藤湖南の秋田師範時代からの刎頚の友でした。湖南とは呂泣をみて学び呂泣は湖南を頼りに学んだのがふたりの青年時代でした。 湖南は幸いに命永らえて大成し京都大学教授となり、東洋史学にあって「実証学の湖南か文献学の白鳥か」(白鳥庫吉・東京大学教授)と並び称されました。呂泣は不幸にして二十台半ばにして結核に罹り、十分な業績を積むことのないまま明治31年、33歳で亡くなりました。奇しくも呂泣の最期の文は湖南の出世作『近世文学史論』に寄せた序でした。
 
 いま周りを見わたすに、呂泣の書き遺したものはほとんどありません。呂泣は死を迎えるにあたって書いたものを焼いたといいます。湖南がもっていた呂泣の遺文もまた、湖南の家が火事にあったさい焼失しました。手がかりになるものといえば、湖南の文章に出てくる呂泣のことと、『日本人』『亜細亜』に呂泣が書いた文章だけです。 これまで呂泣のことを正面から扱った書物を筆者は知りません。ただ、内藤湖南についての本のなかでは、湖南の青年期を語るとき、必ずといっていいほど呂泣のことが紹介されています。たとえば、青江舜二郎の『竜の星座―内藤湖南のアジア的生涯』(朝日新聞社1966 絶版 )には、史実的にはやや問題があるものの、読み物としては呂泣のことが興味深く書かれています。千葉三郎の『内藤湖南とその時代』(国書刊行会1986 絶版)は筆者の知る限り、もっとも多く呂泣について触れたものでした。 呂泣の生まれた矢島町では、今野銀一郎氏が同町の郷土史研究会で『悲劇の先覚畑山呂泣』を報告紹介(時不詳)されています。さらにそのときのレジュメによると、昭和63年(1988)「矢島町立町百年記念人物展」において呂泣に関する展示があったことを知ることができます。しかし、概して矢島町に畑山呂泣のことを知る人は少なく、埋もれてしまった人物の感大なるの印象をぬぐえません。
 
 呂泣のことを書くにあたって、筆者が新たに得た史料はありません。ただ、先にあげた先人たちの業績を読む機会を得たこと、湖南が呂泣について書いたことは『内藤湖南全集』全十四巻(筑摩書房1979〜76絶版)、なかでも第一、二、十四巻に載っていること、雑誌『日本人』『亜細亜』は早稲田大学図書館で閲覧できたこと、これらによって焦点を呂泣に絞り込む可能性を得たことは筆を執る最大の動機になりました。 もうひとつ理由があります。それは、呂泣が矢島人でありながら実に矢島人らしくない性格のもち主であったということです。今野氏は呂泣を「悲劇の先覚」と紹介しました。事実はその通りです。出生にまつわる問題、生家の没落、結婚と離婚、投獄、そして病。33年の人生を悲劇で彩るには十分なできごとです。しかし、その一方で、向学心からの家出、師範校長とのケンカ、恋愛干渉選挙に抵抗する記事の発表、忌憚のない論説、なによりも周りを明るくする性格は天衣無縫であり、矢島盆地に小さくまとまりがちな矢島人にはないものでありました。
 
 呂泣が今の私たちになにを残したのかといわれれば、答えは「ノー」です。筆によって立ちながらも一冊の書さえ残しませんでした。呂泣の書いた文章も今の私たちには陳腐なものです。片言隻句ですら後代に訴えてくるものはほとんどないように思われます人生着実にステップアップしていくのが一番という考え方からは、呂泣の人生は酒と女と病気であたら若い命をむだにしてしまったとみえないこともありません。湖南の寝食を忘れて学問に打ち込んだ姿と対比するとき、その感はますます強くなります。湖南が師範卒―これはこれで大変なことだった―でありながら、長い助走路を倦むことなく走り続け、ついに離陸して大学者と呼ばれるようになったのに対し、呂泣の方は師範時代こそ湖南に勝るとも劣らないスピードで走りながら、途中で横道にそれ大空に舞い上がることができなかった。呂泣の人生は飾らずにいえばそんなところです。 そうではあるけれども、見方を変えて、重い飛行機がなんで空中に舞い上がるのかといえば、風がもち上げてくれるからだということでしょう。呂泣はからりとした高気圧から生じる風だったのでないか。たとえば、湖南にもし呂泣という友人がいなかったらどうだったでしょう。あるとき、湖南は呂泣から五十枚を超える手紙を書いているといわれて、それなら自分もと夜を徹して手紙を書いたことがあります。しかし、二十数枚しか書けなかった。それで、呂泣にそのことをいうと呂泣の方は、あれはうそで自分は二枚しか書かなかったといいました。湖南は気の強い人で、こういう悪さには我慢がならない性格でしたが、しかし呂泣のことは笑って許しているのです。湖南は呂泣のことが好きでしょうがない。湖南ばかりではない。政教社の人たちがみんなそうでした。文筆の力なら呂泣よりももっと上がいましたが、周りを明るくするという力なら呂泣が一番だった。だから、諸先輩を差し置いて編集人にも抜擢されたのでしょう。 三宅雪嶺、志賀重昂、あるいは矢島にも関係ある高橋健三といった政教社の指導者たちから呂泣は愛されました。同輩では長谷川別天、浅水南八が、湖南も含めて三羽ガラス、あるいは四天王と呼ばれ、呂泣と爾汝の交わりを結んでいました。呂泣個人についての史料上の制約は、こうした人たちの考えと行動を示すことで埋めることもできるかも知れません。そういう思いで筆を運ぶことにします。
 
 

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