毎年 9月第二日曜日 祭典(前日 宵宮)
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    【本編】『矢島の神明社 八朔祭』(地域文化資産)
【ダイジェスト】『矢島の神明社 八朔祭』(地域文化資産)
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『令和5年 矢島八朔まつり』の写真を掲載しました

令和5年 八朔まつりの様子:ゆりほんTV

 

【概要】

  矢島の祭典は古くから八朔のお祭りと呼ばれ、旧暦の八月朔日にとり行なわれてきた。
 八月朔日は田穀のよく実るのを祝う式日として、江戸幕府は五節句なみに諸大名の総登城日と定めていた。(朔日〜旧暦の一日のこと)
 この八朔祭りが、矢島城下の重要行事となったのはおそらく明和九年(1772)以前の頃からではなかろうか。
 それは舘町の古記録の中に「六月十三日、塩越(象潟)まで両町(田中町と舘町)人足にて神輿をお迎えに行き、両町親方衆(庄屋、用達、宿老)と組頭は残らず八坂までお迎えに出る。金子文之進様お出で。土屋吉兵エ(田中町庄屋)宅に神輿お入り遊ばされ、しばらくして神明様へお移り、その節愛染様拝殿にて金剛院加持祈祷これあり候」と記されているからである。
 これは新しい神輿ができて、京都から船で塩越港に着いたので、両町から人足が出て、ハバ山越えて迎えに行ったことを書きとめたもので、この神輿はさる大藩で注文したものが、まちがってこちらへ送られてきたとかで、実に善美を尽くしたものであったとは、里老がのこしていった伝え話である。この頃神明様を伊勢堂と呼びなし、愛染堂と並んで福王寺と寿慶寺の間に建てられていた。
 ところが矢島の殿様がはじめてお国入りしたのは、それから八年たった安永九年(1780)八月十九日で、矢島八代目の藩主親睦(ちかよし)の時であった。そのため八朔祭りは日延べになって九月二日にとり行われ、神輿が大手門から陣屋にはいったのを、殿様は玄関の式台へ出られてご覧になった。
この時の行列奉行は、藩士の中から選ばれて佐藤津守がその任を勤めている。この日は神明境内で余興の狂言や草相撲等が催されたので、殿様は正式のお供連づれで見物かたがた参拝している。このようにして八朔祭りは藩のひ護のもとに、威儀を正して行なわれるようになったらしい。
 藩主の国入りはごくまれであったが、それでも国入りする宿割り飛脚がくると,祭日はその着城とあわせてきめるのが例となった。境内に舞台をかけ、町の芸人がよく草紙芝居を演ずるのが恒例となっていたらしい。
 このりっぱな神輿は、明治戊辰戦争で惜しくも焼失してしまったので、その後しばらくの間は神輿のおくねりがなかった。そこで三町(七日町を加えて)の氏子が相はかって神輿の復興にあたることになったが、今度は矢島の工人を結集して製作することにし、細工場を広祐寺にして蒲田九蔵、池田久平、伊東祐二郎等の大工諸氏が腕をふるった。しかし漆師だけは京都の本職を呼びよせて仕上げたもので、今見る神輿がそれである。時は明治三十四年、五年頃であったという。
 祭りは宵祭りに始まるが、俗に夜宮と呼んで神輿が里宮へ渡御される行事で、普通お下がりと称している。旧記によると「朝七つ時(四時)、神輿弁天にお下がり」とあって、当日夜明け前にお下がりしたことを教えてくれるが、弁天様が宿宮であったことは昔も今も変りがなかった。弁天様、実は宇賀神社で、祭神は豊饒の神稲倉魂(うかのみたま)であるから、神明様とは共通一体の神であるし、そのうえお互い女神であってみれば、一夜のお宿にはまたとない安息の宮居であったろう。
 お下がりの見ものは、お迎え燈篭(とうろう)の波である。電燈のない時代が思いやられる。生駒家の紋所半車を描いた、いわゆる「御紋つき燈篭」が各町に割当てられて幾竿か交じっている。若者の神楽太鼓が夜空にこだまし、田楽燈篭をかかげた少年、すなわち小若衆の歓声が爆発する昂奮のにぎにぎしさは、歴史的にごく近代の趣向であるが、夜宮を彩る最高の風物詩となりすました観がある。
 神輿をかつぐ神人は、神社周辺の人々によって奉仕されてきたが、別に身体堅固の祈りをこめて奉仕する人も少なくなかった。水垢離(みずこり)をとり白装束に風折烏帽子をいただいたこれらの神人は、町家で砂をまいてしるしたお通り道を、何やらありがたそうなかけ声をかけながらお通りなさる。
 先頭をふれて行く太鼓の音「ドン、ドン、カカカ」「ドドドン、カッカ」が、間断なくそして遠く近くにひびきわたるこの一日は、一郷の民草にとって最良の日であったことが追憶されようというものである。
 お行列、つまりおくねりの道順であるが、これも旧記によると
  「弁天〜七日町〜田中町〜家中〜民部坂(こんぴら坂)をおりて新町〜舘町〜神明」となっていて、今のコースとは違うようである。
 もちろん陣屋表御門には必ず立ち寄り、藩主が在府であれば城代家老が出座して拝賀された。
 ちなみに神明堂の寺社料は十俵となっていて、龍源寺二十俵の半ばに過ぎなかった。
 山車の綱を引く練子の数は今よりはずっと多く、その装いも千態万様で、しかもきらを飾って美しかった。町の家々では、のし袋に小銭を入れて待機し、練子たちに花を与えて喜ばせている。山車の構想も戦記物や物語ものの場面が多く、組立の規模も一まわり大きかった。
 それにしても矢島の祭り特有の「はやしかた」は、どのような経路をへてきたものであろう。「祇園ばやし」、「けんばやし」、「さいさいばやし」の三調子が織りなすリズムとメロディーは、笛と三味と太鼓の和音に生かされて、出来秋の喜びを共に喜び合うように通り過ぎていく。
この祇園ばやし、まぎれもなく京の流れをくむものであろう。
 生駒氏は、西国大名で桃山城下育ちの家柄、それに京の妙心寺山内に玉竜院を開基して、高松三代の菩提所としていることなどもあって、京の音曲や手ぶりに郷愁を寄せたであろうことは想像にかたくないところである。「けんばやし」、「さいさいばやし」は「いつの頃か角館ばやしを伝習したものらしい」と語ってくれた古老もあったが、さすがに一郷の大祭らしく近郷近在からくり出してきた観客でせまい通りは文字どおりに埋まっていた。
 さて、二町から三町へ、終戦後は四町、五町と奉賛の町内がふえて、今の六町時代となったわけであるが、どこでも見られるように町内若者衆の祭りにかける心意気は盛んなものである。
 祭日は、いつの頃からか旧暦の八月一日から新暦の九月十七日に切り替えられてきたが、最近、農事の都合に合わせて九月第二日曜日に催されるようになったともあれ、歴史と伝統を持つわが矢島の一郷の秋祭りが、その本質をつらぬきながら町発展への源泉となってくれるよう、ともども考えていきたいものである。

                           (佐藤周之助筆)