伝 承 語 彙
生駒氏
 大和生駒荘の住人で生駒と称し、戦国時代、家広の時尾張に移ったという。親正の時、織田信長、豊臣秀吉に仕え、歴封して讃岐(香川県)17万1800石の領主となり、高松・九亀両城を築く。親正・一正・正俊・高俊と続き、寛永17年(1640)高俊の代に御家騒動で領地没収、勘忍料として一万石で矢島に転封、矢島二代高清の代に弟俊明に二千石分知、八千石交代寄合として十三代親敬の時戊辰を迎え、明治元年藩屏に列せられ一万五二〇〇石余、後に男爵となる。矢島のお殿様。
裏祭り
祭典の翌日、当番町が後片づけをして、祭器台帳に記載された一品一品を確認しながら、次当番に引き渡し、立合った他町氏子代表が立会人として署名すれば引き渡しが完了、次当番が引きつがれた物品を片付け終わると、祭典の直会をかね慰労会をする。これを「当番渡し」と呼んでいる。
 各町若者も同様祭典の翌日集合、一切の器具道具類の後片付けをし、夕方、日中出席出来なかった者も集まり、反省と慰労会をする。これを「裏祭り」といっている。尚、会計決算会は後日実施しているところもある。
お託宣(たくせん)
 本来の意は、神が人にのりうつり、または夢などにより意思を告げ知らせること、神に祈って受けたお告げのことであるが、八朔祭りでは、神輿を担ぐのに奉仕する人々を「お託宣」とよんでいる。
 かつては信心深い方々の希望者によったが、いまは立石集落の方々に依頼している。
三町半割
 六町割 神明社維持費(祭典費は別)の拠出の割合のことで、明治の初期迄は田中町と舘町の二町であったが、明治30年代から七日町と城新が加わり、田中町(新丁含めて)・舘町が各一町(丁)、七日町と城新が一町半で「三町半」と称した。戦後、田中町・舘町・七日町・城新が平等に「四町割」となり、七日町の世帯急増で「四町半割」となり、更に昭和43年からは世帯単位で維持費を微収する事になり、三丁半割はいまでは死語となっている。
山車(だし)
 祭礼の時、種々の飾り物をして引き出す車のこと。矢島の八朔祭りでは通称「やま」(山鉾の略)と呼び、二層の屋台四輪の曳き山で、上段の飾り山人形は、各町内の若者によりテーマを決めて作られる。飾り山前方下段は囃子手の席で、大太鼓・小太鼓・笛・三味線で、太鼓は小学校高学年男子3人、笛は若者衆2〜3人、三味線(近年はは高校生)(1〜2)人が乗る。下段後方幕の中には花もらいの会計の席がある。古い記録を見ると花車とも書いてある。
灯籠 宵宮に使われる灯籠は四種類ある。
(1)田楽灯籠 小若(小学生)が持つ灯籠で、タテ25cm、ヨコ25cm、長さ70cmの田楽の形の灯籠に、約1.8m位の角棒を通して、各町内の小若たちが持ち、神楽太鼓の先頭を二列に並んで歩き「エーエーオー」「エーエーオー」と、声を張り上げて進む、灯籠の四面には「○○若者」「家内安全」「交通安全」「豊年万年」「祝祭典」等と筆太に書き、最近は四面中二面には自由にイラストを描いたものが目立つ。
(2)御紋付き灯籠 各町内に割り当てられた生駒家の半車の紋を入れた楕円形の灯籠で、各町内名を入れてある。経43cm、長さ68cmの大きさで、長さ3.6m位の竹竿の上に二つさげて中若(中・高校生)や若者が主として持つ。
 お迎えに上る時は町内の神楽の後に従い、お下りの時は、神輿の前に5本神輿の左右に13本、神輿の後方に9本各々の町内に割り当てられ、神輿護衛の任に当る。
(3)ホーズキ灯籠 丸い形の普通の提灯で、全体が赤で、献燈と文字を入れたもので、赤色で丸形なのでホーズキの名で呼ばれたものと思う。約4.1mの竹竿に、上2個・中4個・下6個をつり下げて、主に中若や若者が各町内毎数本づつ神楽の後につづく。
(4)企業灯籠 昭和28年から商工会が献灯を開始したと祭典記録に有り、ホーズキ灯籠よりやや大きめの灯篭に日の丸を描き、その間に「花立クリンハイツ」とか「矢島共同仕入組合」とか献灯者の名を書き入れ、ホーズキ灯籠の要領で12個を取り付け、若者共が持って神輿行列の後に従い、祭りを盛り上げている。
 今年は16企業が参加、大川原の若者頭に持ち方を依頼している。とは商工会担当の談。
練り子
 矢島では山車の前方で綱につかまり町を練り歩く子ども達を「練り子」と呼んでいる。小学校に入る前の子ども達で、3〜4歳の子どもには親が付き添う姿も見られる。服装は思い思いであるが、その町内の仮装に合せたり、店頭で販売されている半天姿であったりと服装はまちまちであるが、お化粧して着飾ってお祭りに参加させる事が、親や祖父母の楽しみで、他町に住む子や孫を八朔祭に呼んで参加させている微笑ましい光景も見られたものだが、この頃の少子化現象は、練り子の数にも現れている事は寂しい限りである。
年番
 御神輿御行列帳の保存されている一番古いのが安政2年(1855)で、その裏に「年番舘町庄屋鍵屋六左衛門如」と墨書されている。当時は田中町・舘町が交互に八朔祭の当番をやったことがわかる。
 明治33年から、七日町と城新が一町として年番に加わり三町制となり、戦後の昭和23年七日町、翌24年城新と四丁制に移行し現在に至っている。
 水上・新丁が当番町に加わらないので「大当番」との言い方もある。
花・軒花
 若者達の祭典経費で一番の収入源は、祭典当日市街部各家庭一軒一軒を準備した配り物(今年は六丁ともティッシュ)を持って回りいただく「花」(ご祝儀)である。その係は「花受係」とか「配り物係」などと呼び、祭典前に必要個数を準備する。田中町は丁内用(田中町・丸森)配り物100個、一般用配り物1200個準備した。 軒花は各々の丁内に宵宮の日配るもので、田中町では四百本準備していた。
盛砂
 いまは全く見る事は無いが、道路が舗装されない前は、各家々で宵宮の夕方迄に、道路に面した座敷や玄関に、お飾りと称してお神酒や供物やおせん米・花などを準備し、それに向って道路に沿って左右2m位、中央から巾1m位家に向って盛砂をした。新しい川砂を使ったり、土の小さな固り(ザク)を近くの急斜面のくずれ落ちた新しい物を取って来て神様をお迎えする道筋を作った、これを盛砂又はきよめ砂と言った。
 
有信講規定
 七日町若者が明治11年4月14日、若者達が祭礼執行の為に制定した講規定で、若者が学校を卒業して42歳迄を講員とし、祭長(現若者頭)1名、副祭長(現副若者頭)を選挙で決めることや、最後には罰酒の例があり、諸入費(会費)納入を17日以上遅れると酒二升、祭長の号令に背くと壱升、酒酔喧嘩口論した者は共に五升、集会への無断欠席三升、遅刻二升等と厳しい罰則もみられる。
 この講はいつ頃迄存在したか知る人も居らないが、現在の若者達は、宵宮の朝、神主のお祓いを受けてから各々の分担任務に取りかかる仕切りなどを見ると、講の伝統が継承されているとも思われる。
若衆・若者・若者頭など
 現在数え42歳迄の若者を、田中町は「若衆」、舘町は「青年会」、他の四町は「若者」と呼んで、各々の町内に住む者は八朔祭りに参加する義務が有るように進められている。田中町だけがどうして「若衆」と言うのか、大正11年以降の祭典雑用帳と記された帳簿の裏に「田中町若衆」とある。一部伝えでは殿様から「若衆」と称することを許されたからだと語るが定かではない。
 舘町の「青年会」の呼称は戦後と考えられる。舘町丁内記録によれば、明治19年5月舘町若者より献灯費補助の願いや、八朔祭りの記録にも若者とある。戦後田中町の若衆との関わりで、他四町と異なる青年会を呼称したものか、その訳を聞いても知る人はおらない。
 七日町・城新・水上・新丁は「若者」と称している。
 若者頭は舘町以外はどの町もそう呼んでおり、その年の最年長者から選び、祭りが終了すれば次に当番を渡すなどの事なく、任が解かれるようになっている。
 舘町は会長・副会長と呼んでいる。
 
 

古文書説明

矢島神明社所蔵文書

明治34年御神輿新調・神庫及拝殿建設関係文書
 寄附台帳・同受領書発行控・会計明細帳・回章控仮記録・契約書・仕切書・受領書・通信控等、終わっての事務引渡目録まで保存されている。

昭和三年改築時寄附台帳 1冊
 全町分個人毎金額・氏名・印あり、木材・石材等も記載されている。

昭和54年神明社修復工事施工時寄附台帳 3冊
 個人毎金額・氏名・町内集落名記入。寄附台帳と共に、修復工事趣意書・同御礼状・寄付金集落別一覧がある。

郷社神明社祭典記録(舘町世話係) 2冊
 明治23年旧暦八朔と表紙にあり、23、25年、36年から43年迄の舘町丁内としての記録である。
 同記録大正2年よりの綴りも同様丁内としての八朔祭りの役付などが記録されている。

御神輿行列帳 六合冊(舘町丁内分)
 安政3年のものと、明治34年から、一部脱落があるが昭和59年迄の行列帳が保存されている。内容は当番丁より各町内に割り当てられた役付氏名を、行列順に記載したもので、当番丁より各丁内に一冊ずつ配布されたものを数年分綴って保存されている。
 
伊勢信仰文書

佐藤森夫氏所蔵、永正弐乙丑年(1505)六月吉日付けで、三日市大夫次郎より伊勢守宛、霞所に関する書状。

相庭館八幡神社所蔵、一万度御祓大麻。年号は記していないが「御師三日市大夫次郎」とある。

各種講調査
矢島町郷土史研究会、文化財保護協会矢島支部共同で、平成5、6両年にわたって調査した。町内各種講の実体調査報告書の「伊勢講」の部を引用した。

伊勢参宮と道中日記
(1)続矢島町史下巻、明和2年(1765)木村有周の「伊勢参宮・西国巡拝道中記」
(2)矢島町の古文書散歩第八集、嘉永5年(1852)佐藤正三家「伊勢参宮日記」
(3) 同 第21集 嘉永6年(1853)茂木元貞「神社仏閣道中記」
(4)文政2年(1819)三浦六之丞「道中記」などを参考にした。
 
御在府御納戸 御在所御用部屋 日記(抄)
 故土田真鎮家文書で、現在矢島町資料館に寄託保管されている町有形文化財(古文書)の指定を受けている文書で、六代生駒親賢公代明和8年(1771)から慶応4年(1864)まで、断続的ではあるが全五十冊、江戸(御在府)、御在所(国元)での御用部屋、御納戸の日記抄(明治になって抄出記録した)である。
 御用部屋とは、幕府であれば老中や若年寄が詰めて政務を執った所であり、各藩も各々御家老などによる政治向きをとりしきった所である。御納戸は、殿様の衣服、調度など内向きに関わる所で、共に日記文でごく簡約されているが、江戸・国元各々の藩邸の内部を知る貴重な文書である。その日記の中から、八朔祭りと、三日市大夫次郎の来邸記事、国元農民の参宮途中に藩邸に立ち寄った記事などを紹介した。
 
御領分中覚書
 鳥海町高橋建家文書で、鳥海町有形文化財(古文書・書跡)指定を受けており、宝暦8年(1758)生駒九代親賢の代にまとめられた文書で、末尾に「右は高柳安左衛門殿(江戸家老)御名代として、金子久左衛門殿(国元家老)、小助川治郎右衛門殿(大目附)御同道にて、御領中御廻郷成され侯節、郷々村々の本田・新田高・大小の名主、組頭、家数、人数、神社仏閣、古跡、深山幽谷、自他の堺、山川道路、産物有無、荒城、論所など委細これを記す可き旨仰せ付けられ侯得共、御領内遠近広き故、たしかに相知り難き所多く、故に粗々にこれを記し終わる」とあり、宝暦6年からニカ年にわたり領内を廻り、時の郡奉行によってまとめられた貴重な記録文書である。本覚書から、当時の神明社の扱いや、当時の神明宮の所在や数など、さらには修験の実態などを知り、紹介することが出来た。
 
舘町記録帳 乾坤二冊
 表紙には元禄15年(1702)より文化2年(1805)まで、組頭大井幸左衛門如と書いてある。
 幸左衛門は、酒造業大井家の五代目、寛政8年(1796)生れで、医者や学問の師匠をした人物である。
 生駒領当時の町方は、田中町と舘町の二町だけで、八朔祭りは、祭り奉行のもとで二町が協力し祭典が取り行われた。その記録を紹介した。
 現在舘町記録帳を所蔵しているのは大井益二氏である。
 
舘町丁内記録
 前記大井益二氏所蔵舘町丁内記録は、表紙に第壱号明治16年8月下旬とあり、その内容は同24年3月までの町内の出来事や、決定事項などが記録されている。
 
絵図面  県公文書館蔵

元禄図絵図
  国御絵図三枚之内生駒主殿知行所
  羽州由理郡矢島玉米下村之図
             川村源太輔
  元禄十丁丑歳十月十七日上之
 江戸幕府が諸大名に命じて作らせた国ごとの絵図で、元禄の国絵図作製の折には、幕府指定の絵師たちによって作られたとあるから、川村源太輔は幕府指定の絵師であろう。この絵図によって、近世殿様が国に帰られると参詣した神明の位置が、現福王寺の左下方に在ったことがわかる。

陣屋絵図(仮称)
 陣屋を中央に描かれた絵図で年号は記るされて無いが、居住家臣団の氏名から宝暦年問と推定される。神明の位置は同じ。
 
 

文  献

『神明明細帳』  齊藤壽胤所蔵
  皇学書院発行「現行神社法規類集」の附録に、大正2年頃書上げたと思われる 「秋田県神社明細帳」である。
『秋田県神社名鑑』  矢島町公民館所蔵
  平成3年9旦20日発行、秋田県神社庁が平成の御大典を奉祝、記念事業として 編集発刊した名鑑である。
『鳥海山史』  今野銀一郎所蔵
  姉崎岩蔵著、昭和27年6月20日、矢島観光協会発行。
『七日町丁内史』  今野銀一郎所蔵
  平成五年三月一日七日町丁内発行
 
 

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