第五章 まとめと若干の考察

 
 祭礼といえば祭りの日に催される神態、主として神輿の渡御や山車、練り物などの行列とか、舞踏とか、さらには競技などという賑わいをさす観念がある。しかし、本来は神社で行われる神事も、その日行う氏子各家々にある禁忌や食事なども含めて祭礼というのであり、宗教儀礼においては専門の祀職でなければできない秘法もみられ、祭式においても厳重にして複雑な作法を伝えるのも祭りである。年番とか神籤によって定められる統人制もあり、祀職ばかりではなく氏了からの司祭者を選んで行う祭儀みられる。幾重にも重ねられる行事のうえで成り立っているとか、厳粛さを重んじるために蕪雑を忌避することもあり得る。要するに多岐に亘る祭りであるが、一定した法則があってこそはじめて祭り本来の意義が生じようというものである。そこに通底するのは信仰に他ならない。祭りが年中的に繰り返され、毎年毎年ほぼ同じようなことを殆ど替えようとしないで踏襲するのはいったい何故なのだろう。周期伝承といってしまえばそれまでであるが、移住による複雑な構成をなす都会では共同体は希薄であるが、少なくとも矢島においては伝統的といってよい社会構造的なまだ共同体の意識が遺されているのをみれば、祭礼が生活上の規範として緊密性を保ち、そこにおける社会機構が連関していこうとする機能に重要な要素を見い出すことができる。八朔祭礼を担う構造においても、それは今日的な維時に困難な問題が横たわってはいるとはいえ、祭礼を維持し続けようとする社会的な機構が周囲からの期待にも増して存在感を潜行し続けているのである。一定の繰り返される法則に似た祭礼の中でも社会的時空間の推移も受け入れながら、必して消えることのない心立もある。つまり、そこにこそ祭りが生きているとみられるからである。
 具体的にいえば、矢島の神明社八朔祭礼においてもさることながら、先学の指摘する古暦の考え方に照らせば、古くは一年が春と秋の二期でしかなく、春祭りに正月が重なり、秋祭りには盆が同化して、その本義をば穀霊の祭りは祖霊の霊祭りであることを指摘する向きがある。とすれば、新穀を供饌して相嘗めをする新嘗祭と、春の春耕と稲種に籠もる霊を祭る春祭りに祈年祭が比定できると思われる。この見方は、八朔祭が初秋の稲穂が出揃った段階で一番よい穂を抜きとり、これを初物として神に供え、稲の成就を報告するとともに、満収穫までの無事を祈るということになろう。つまり八朔祭は最初の秋祭りということになる。初物儀礼は、神明社八朔祭礼で神楽屋台の屋根に飾られる稲束にあるように、また近世菅江真澄が穂掛として神杜に二穂の稲茎の本を結んで掛けて奉る風習こそが八朔の儀礼であったことを記録しているのをみても、神の恵みによって得られる収穫を確保するには、それはもっとも貴重とする初穂を神に棒げるという祭儀によるものであった。八朔祭礼は全くこの意味に外ならないのであり、民間に行われてきたタノミの節供といわれる豊作祈願のさまざまな伝承もこれに関連していることが指摘できる。矢島の神明社の年中祭事として、その信仰に照らして最人の祭日を八朔と選定してきたのはその意義に充分に沿ったことからであったと考えられる。それに矢島の歴史的風土的な文化の間に神明社は八朔祭礼を意味づけるものであった。だから、総鎮守としてのその為政者も関わるという形態を得ながらも今日祭礼の存在があるのではなかろうか。
 八朔祭が矢島の神明社最大の祭礼として、また神明社が旧郷社格として一郷の信仰を集めていたとすれば、その根底に流れる神明信仰と稲作農耕信仰が相俟っていたことは縷々述べてきた。それは矢島領主生駒氏に限らず、領内総合の人びとの信仰に基づいた祭礼として享受していたことはほぼ問違いないであろう。ここにおける八朔祭礼の特色をあげるならば、民間の八朔日に関わる信仰を内在し、さらに祭礼として風流を取りれた伝統的季節的な祭りに高められていったこと、そして、神明信仰の一部と考えられる神楽屋台を通して獅子権現に寄せる悪霊除却信仰も存在することである。『年中行事』(日本歴史新書所収・和歌森太郎著/昭和47年9月/至文堂)は、「地方の村落によっては二百十日の当日と旧八朔とには、風除けの意味をもって獅子舞を出しているところがあり、古野清人氏の研究(民俗学年報第三巻)では下野に著しいが、そういう要求も白然である」という。一方、八朔に獅子舞が行われるのは雄物川町谷地新田である。この日には餅を指いて神々に供えると言い、谷地の八幡社からお獅子が廻ってきて、この獅子をゴゴタ獅子と呼んでいた。廻ってくるときに打ち鳴らされる太鼓の音が、「ゴンゴタ、ゴゴタ、ゴゴタ、ゴンゴタ……」と聞こえてくることから呼び名がっいたという。この一行は神官、獅子舞二人、旗持ち、お初穂背負い、法螺吹き、太鼓打ちなどで、遠くから太鼓と法螺貝の音が聞こえてくると家々では、「ゴゴタ獅子が来た、今日は八朔の一日だオナ」といって、縁側や上がりかまちに茣蓙を敷き祭壇を整える。お初穂米、お神酒、塩、洗米、灯明、花などを供えてお獅子の来るのを待つ。獅子が来て舞をまっているうちに神官が五穀豊穣と悪病祓いの祝詞を奏上する。そこの主人始め、皆は頭をたれて拝むと獅子が頭を噛むようにして祓いをしてくれる(播磨弘宣著『むらの歳時記』/1982.4/日本経済評論社)、というものであった。その昔は隣村の桑木からも獅子がこの日に門付けをして廻ってきたともいう。風祭りと八朔祭も関係するが、それよりも獅子舞が八朔祭そのものだとしてきた例では、神明社の八朔祭もそれを取り入れたかのようである。獅子舞は風流祭礼からの要素からの位置付けができるが、それ以上に八朔とは極めて密接な紐帯を保つのだろう。八朔の獅子舞は言うまでもなく矢島の神明社祭礼にみられる獅子信仰と相俟って、悪霊除却やひいては谷地新田のように農耕信仰に匹敵すると推察される。
 八月一日をなぜに祝祭の日または節供として撰んだのか、という由来は明らかでない。農耕の暦と関連するだろうことは想像はできる。伊勢流武家故実家の伊勢貞丈が天明4年(1784)まで記した雑録を整理した『貞丈雑記』(島田勇雄校注/1985.4/平凡社東洋文庫)には、さすがに有職故実家らしく文献を引いて述べている。「公事根源」にいうとして、建長(1249〜)の頃よりあった例しであるとしながらも、古くは田のみのといって、米を折敷土器に盛って音信を贈ったのであるが、文永年中一条実経の記に「七、八年以来流布」というが、これとてもその起源は判明するものではないという。貞丈云う、として、元来は田の実といって米穀の成就を祝うことがあって後、頼むの縁語を用いることにより各々お互いに頼む人へ物を贈り、例えば君臣が和合し、睦まじくする祝い、として今世では式日の日なっただけのことである。この節供の意味よりみるならば、当時は広く武士の間でも八朔の贈り物の風習があったことを意味づけるに吝かではないが、それでも、貞丈は「正礼にもあらず、堅固世俗の風儀也」(「公事根源」)説を推している裏には、八朔は下層に発した公的な由緒のない行事であることを意識した、むしろ反援的な態度もうかがえる。その例では、『年中行事辞典』(西角井正慶編/昭和49年5月/東京堂出版)でも解説するように、もとは質素なものが用いられて、折敷や土器に米をもって贈ったといわれるが次第に華美になったもので、公家たちが八朔の風習を白眼視した理由も出費に対した願慮が事実上の理由であったらしく、鎌倉幕府が禁じたのは贈答によって及ぼす弊害を重視したからであろう、という見解が有力である。
 ここに、既に指摘されてきた八朔の二面性が浮き彫りにされている。ひとっは稲の穂入りを前にして新穀の豊熟に関する頼みの信仰である、それにもう一方ではこの農耕信仰から発した武士階級から公家社会にまで取り入れられた、主として頼むところの人との結合を強化するための贈答の行事として取り入れられていった、という面がある。矢島では贈答の風習があったということを聴くことができないし、それに近世の武士階級においても文献にかかる端的な資料は見当たらない。つまり贈答そのものの風習はほとんどなかったのではないのだろうか。これをどのように考えるべきか。八朔の二面性のひとつである贈答習俗は、本質的には八朔をたのもの節供≠ニか田の実≠頼みと充てたり、患としたり、「恃怙之節」と書くなどの例にあたるように、これを積極的に主従関係の強化の機会として意識的に利用するようになったのは想像に難くない。そのために、一方では進物などの贈答習俗が著修になるという傾向を快しとはしない、むしろこの本来的な八朔の節を斎うことに向けた行事を積極的に取り入れる事が好ましいと考えたのではなかろうか。したがって、その意味から矢島における神明社八朔祭は、起源を特定するのは別にして、既に生駒氏が初めて矢島入部の以前から行われていた祭礼であったことを考慮するならば、この八朔祭礼を為政的にも領民との積極的な頼みの結合、潜行的ではあるが庇護関係のあり方として取り入れたとも考えられるのである。八朔祭礼と生駒氏や家臣のそのような関係は、既にみてきたように祭礼奉行の任命とか、御紋付き灯籠、そして祭礼への武士階級の人びとの供奉参加、などに積極性をみることからも充分跡付けされるであろう。
 八朔には、滋賀県高島町音羽では9月1日に円陣を組んで青年たちの踊りが行われる。これを八朔踊りといって、中のひとりが大きな幣を担ぎ出すという神事性もうかがえ、八朔踊りは雨乞いの時にも踊るものであったという。八朔行事に稲作農耕信仰が端的にみえるものである。八朔盆といわれるのが大阪府三島郡にあり、9月1日を盆の終わりとして、八朔と盆を重ね合わせたもので、これには祖霊と秋祭りの関連を考えるうえでも興味深いところである。八朔の日に人形をつくって祝い遊ぶ風習もある。京都地方では憑人形とか八朔雛とかいい、姫瓜に紅白白粉をつけて遊ぶのである。三重県桑名でも、瓜を顔にして木や竹を胴体とし、紙や布で着物をつけて雛人形のように酒や赤飯を供え、八朔を祝う風があるという。今は行われないとしながら、人形船といって家族の人数分の団子を頭にした人形をこしらえ、船に乗せて海に流すという広島県宮島の八朔があった。対岸の農家ではこれを拾って田畑におくと豊作になるといった。北九州一般では八朔の日に七夕と同様に笹に短冊や下げ物をして飾る風習が盛んであったとか、宗像の地ノ島では児の生まれた家では雄竹に短冊をつけて門口に立て、八朔の未明には戸を叩いて児の名前を呼んでは、頼みますといって廻るという、など、各地の八朔の諸相をみれば、農耕信仰に根ざしたといいながら呪術的な要素もうかがえる。和歌森太郎は『年中行事』(日本歴史新書所収/昭和47年9月/至文堂)で、信州天竜川の八朔行事として稲虫退散として、田の畦で「オンカラ虫送れ」と、はやしたてながら旗で稲穂を撫でて行き終わり、旗を川に投じて帰るという虫送りの行事をあげて、稲作の害をはらうという気分は現行八朔行事に広くみられる型である、と述べている。伯耆の農村での八朔の鳥追いも同じ意味の行事としながら、要するに八朔に虫送りや鳥追いなどをして少しでも厄を除け豊年を祈念するには切実な願いとなる、凡そ作物の初物を、作神や、殊にその作に協力してくれた多くの人びとに頒つことにより豊作を乞うという呪術的な行事は行われやすいものであろう、ともいう。八朔信仰の広がりをみる思いだが、もうひとつ八朔には神社の祭礼化したのが多くあるという、別の一面からみなければならない。神社の祭礼として八朔祭が行われている例は、前章までも紹介してあるが、『年中行事辞典』からさらに拾い上げれば、京都松尾神社の八朔祭(9月1日)、大阪府堺市甲斐町の三村明神での田実神事(9月13日)は、タノミというようにもと八朔祭で、農家から稲の初穂が献じられるという。信州長野県東筑摩の小野神社頼母祭(9月1日)、青森県弘前市岩木山神社の田面祭(9月1日)、山形県羽黒町羽黒神社の田面祭(9月1日)、東京都府中市大国魂神社ではもと陰暦8月1日には田母神事として相撲祭がみられる。他に、島根県太田市の物部神社八朔祭(9月1日)は、通例の神饌の外に、柿・桃・梨・いが栗・蜜柑・棗・茄子・大角豆・大豆が各8個と鱒2匹を稲穂にさして土器に盛ったもの、早稲の籾を火で炙って脱穀したもの各々一台を供えるという、まさに八朔祭礼らしい豊かな神饌に特色があり、これに厳格な祭式や、神事も当然行われるもので、昔は途中で雷が鳴ると改めて神饌を調進し直す規定があるほどであった。さらに、栃木県栃木市の太平山神社八朔祭、千葉県館山市安房神社初潮祭(旧暦8月1日)は、この日は一年中の潮が改まる日として漁業者の信仰があるであるといわれる祭りも八朔祭である。等々、神社祭礼や神事においても八朔がみられ、この面では神事化した特別な信仰をみなければならない。八朔の二面性に対して、祭礼の八朔がより特殊化した形ではあるが、本来的な信仰と祭礼神事に加えて風流の付け祭りがもたらされているという、一種、別の八朔祭儀の信仰的要素の面も加えなければならないだろう。矢島神明杜の八朔祭はこの点で、神杜の祭礼の部類に入れられるといってよい。要するに第三の面の八朔行事である。
 矢島の神明社八朔祭が神明信仰を根底に内在していることについては前章で指摘したとおりだが、伊勢の神宮においても八朔参宮といって、この日の早朝に米・粟などの初穂を抜いて神前に供え、五穀の成就を祈るという故事に習っても、八朔が神明社と大いに関連あるのは無理からぬことといえよう。ところが、矢島神明社の氏子六丁内には伊勢講中がないという指摘があるが、それに対して社日講が盛んであることに関しての述べておきたい。この関係は八朔祭と結びつかないのであろうか。
 一般に、社日というのは暦でいう雑節のひとつで、春分、秋分に最も近い戊の日をいう。土地の守護神を祀ることから地神講の日とされているのである。長野県ではオシャニチさサマは田ノ神様であるとして、春の社日に山から降りてきて秋の社日に山に帰るというのである。社日に神社に詣るとよいともいう。社日の信仰には神社から土や砂を受けてきて、田畑に撒き入れるという風習は各地にみられる。即ち、土地の守護神と考えているところからもたらされる信仰であろう。近世では田畑にまさる土地はないものとみられ、土地に強い信仰をもつのも当たり前のように考えられるが、社日に田ノ神の去来があるとし、また春には種蒔き、秋には刈り上げの祝いと結びっいているところ多いのは納得できる。とすれば社日が農耕信仰に委ねられる部分は否定できまい。矢島の社日講は神明社氏子六丁に濃密に結講されて、今日でも盛んだ。それに対し、農村部においては僅かにあるだけが判る。『矢島町各種講調査』(前掲同書)によれば、講の始まりが明確なのは舘町の社日講で弘化2年(1845)としているが、『続矢島町史』(上拳矢島町史編纂委員会編/昭和58年12月/矢島町)には舘町の「社日祭文」として明和3年のものが取り上げられているから、弘化以前の成立であったかもしれない。同じく田中町では「社日祭文」「社日告文」という什物に明和3年(1766)の銘があり、新丁も同年代の祭文と告文を所有する。
 七日町は結講の時期は不明だが、天保12年(1841)の旗と安政5年(1858)の掛け軸があることが判る。城新に隣接する小田の社日講は文政12年(1829)からの講帳がみられるなど、これらを一瞥しても近世からあった社日講であることがはっきりしている。ところで、ここで注目すべきは社日の祭文である。かねて八朔祭が神明信仰にほぼ委ねられていると述べてきたが、氏子六丁内に伊勢講がないことは神明信仰が浸透していないといえるであろうかが問題とされるならば、社日祭文からこの謎が解けるのではないかと思われる。田中町の社日祭文は、「明和三年丙戌年二月杜日」とあり、「生駒主殿親賢卑臣佐藤平治右衛門武元謹書」とした銘がある。漢文体で書かれたものだが、その内容の概略をいえば、年の豊凶にあっては天の定めによるが、五穀の成就は人びとを救い、反対に不作は万民が皆苦しむものである。この憂いを消すために耕業を怠らず、さらに礼記に言うとおり地神の道を知り、春秋に五穀成就の祭りを行うことだ。この教えに帰って、深く安穏を祈願するものである、というような文である。祭文は格調高い文で綴られていて、実にこれが矢島領生駒氏支配の家臣が撰文したことは署名によっても明らかである。社日の信仰とも関わって武士がこの文を撰するところ、「君富み臣安じ人民貢税の苦飢寒の憂い無く上下安穏を祈願奉るものなり」という如く、武士と領民が一体となって信仰することにあることを強調している。果たしてこの撰文を人びとが皆々読み下せたかは別にして、社日の講を通じて領主、家臣、それに外町の町民、領民が一体として深く根付いていったであったに違いない。田中町では、祭文、告文の外に文化10年(1813)生駒親章書(矢島九代領主)の「堅牢地神」とする掛け軸がある。堅牢地神を祭るという社日に対しては祭文や告文を撰文したように地神を祭るのであるが、この書の掛け軸の裏書きによれば「主君予亭江被為入侯節御筆奉願長子左金太御供二而登之節江戸表江遣表具出来田中町江遣置四幅之内也」とあって、「武元孫佐藤郷左衛門武憲」と記しているから、武元が六代生駒領主に仕えて、その孫がこれまで引き継いだ地神信仰をさらに強固にして「堅牢地神」の揮毫を領主親章から授けてもらい、鄭重に表具を施して田中町におくこととなったというのである。この関係からも明白なように、社日を通して家臣と町民の関係は並々ならぬ意が注がれていたのである。
 それであって、社日祭文には詞書きとして
 日本は神国なり。則ち神明は大祖なり。故に謹みて神明の膝下に告げ奉る。仰ぎ願わくは今年より五穀豊饒し、君臣、人民の憂苦を救い、邦内安全を祈願し奉るものなり。謹みて宮内に納め奉る。頓首々々。  藤原武元  百拝  祭文二通一通神明   一通八ツ杉村土地神へ
 とみえる。この祭文が土地神に捧げられるのは勿論だが、ここに「神明は大祖なり」というのは伊勢の天照大御神を指していると考えられるから、それに後文にある「一通神明」に納めるということに対しても、ここの神明社に他ならないだろう。とすれば、社日講は神明社に対する信仰であった現れであるといえよう。換言すれば、伊勢講に代わる社日講こそが神明信仰を補完するものであって、それが敢えて伊勢講の結講をみなくともよかったといえよう。そしてここに神明信仰があり、氏子六丁をして、生駒領主始め、家臣から庶民、領民全般に至るまで八朔祭を支えてきた根基の思惟でもあったといえよう。
 畢竟、八朔祭が見事なまでもこの地域全体の信仰として享受できたのは、矢島のこのような歴史文化性にあることも忘れてはならない貴重なことである。
 

 

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