今年は、戦後60年の節目を迎え、私たちの満州由利郷開拓団が消滅した悲しみの深い年に当たります。
夢を抱き渡満した総員350名も、今はここに集まった数名になってしまいました。
元気をふりしぼって、皆さんが永眠する由利本荘市、鶴舞(本荘)公園「満州開拓の碑」の前で、慰霊祭を行います。
振り返って、昭和16年(1941年)は、我が国の紀元2600年の記念すべき年に当たっており、国策の一貫として、由利郡農会は31ヵ町村の記念事業として私たちの「満州由利郷開拓団」を胎動させました。
秋田県は、開拓団を10段階に分けて派遣し、我が開拓団は10次派遣の最後の開拓団になりました。
満州国(現在は、中華人民共和国)に食料増産、第2の故郷を築こうとしたのです。
本荘部落、西滝沢部落、鳥海部落、八塩部落など、郷土の名をそのまま命名し、遠い故郷に想いを巡らせていました。
所在地は、満州国牡丹江省嚀安県(ムータン チンアン)営城子であったので、正式名は「満州国第十次営城由利郷開拓団」と呼ばれています。
現在の東京城(とんきんじょう・我が国と最も古い交渉のあった渤海王国の首都)駅から、西方向30キロ地点に本部が設置されました。(北緯44度00分、東経129度20分の地点)
先遣隊25名の現地入りから出発した開拓の職務は、あらゆる苦難を乗り越え、みるみる秋田の第二の故郷をつくりあげていきました。
昭和19年には出生数45名を加え、秋田県派遣の44団の開拓団では最大規模の350名の総員に達しています。
中でも力を入れた赤レンガ作りの国民学校の建設は、全国の開拓団でも稀なる堂々たる建築としてうらやまれました。
我が団の耕作・水田を含む総面積は、約18,000町歩と広大なもので、これに伴う輸送用大型トラックや農耕用トラクター等も完備し、牛馬も288頭も保有していました。
3年間の試行錯誤の結果、19年から20年にかけて、稀なる豊作が団員を潤し、主食充実、味噌、醤油、初めて成功したチャンチュウ(酒)工場など、新しい農業文化生活の理想楽土を誰もが実感しました。
しかし、終戦が近づくにつれ、男性のほとんどが徴兵に動員され、昭和20年8月、突如としてソ連参戦による満州国境に異変が起こり、13日午前10時、満州国警察から「直ちに避難せよ」という命令が下った。
それまで築き上げた我が家に火を放ち、逃げるがごとく境泊湖を目指して悲劇の避難行きが始まりました。
その後、再度の命令がくだり「敦化(トウンホワ)をめざせ」とのことで、情報の不正確さに迷いながら、祖国の方向をめざして日夜ガムシャラに歩みを続け、幼子の泣き声だけが今も耳に残っています。
また、ソ連軍の略奪が激しく、本道を避けて山中をさまよい、草の根を食しながら命をつないだのも心に残っています。
9月6日、共に避難を続けていた他の開拓団や日本軍の現地除隊兵も加わり、3,500名の難民集団となって行動していました。
敦化から額穆策(がくぼくさく)、蚊河(チャオホウ)を通過して、山沿いに吉林(チーリン)、新京(現在の長春チャンチュン)を目指すことになっていたようです。
由利郷開拓団はこの難民集団の総合指揮をとることになり、佐々木団長、進藤副団長、進藤校長等は、現地民との交渉、食料確保、生命維持のすべての運命を任せられていました。
9月11日は、避難行き41日間の最悪の朝を迎えることになりました。
私は長蛇の列の先頭にいましたが、午前8時に出発の合図があって間もなく、後方の丘から機関銃が撃ち込まれ、4〜500人の匪族の襲撃に遭いました。
弾丸は耳元をピューンピューンと唸りをたててかすめ、死体や泥に埋まった人間の上を飛び越えて、どこまでも逃げました。
1時間くらいの襲撃が続いたでしょうか、銃声が止み、ふと気がつくと匪族は私を追い越して遥か前方で銃を構え、降伏したひとりひとりから一切の金品などを掠奪している光景が見えました。
進藤学校長は日本製銃剣で額を刺され殉職。副団長は頭部の裂傷にて重体となりました。
9月29日、新京にようやくたどり着き、長春市大屯区南大房身地区陸軍官舎跡の開拓難民収容所に入ることになったのです。
ここでは、各地から続々集まった開拓団、元日本軍人等、約8,000人がどん底生活を強いられました。
この収容所の会長に我が開拓団団長、佐々木三郎(私の父)が選任され、毎日ソ連軍の所へ、私を連れて「食料交渉」に出かけた記憶が鮮明に残っています。
南大房身の生活は言葉では表し得ないほど、残酷で悲惨な冬越しとなりました。
マイナス25度の厳寒に暖をとることもできず、発疹チフスが蔓延し、毎日のように飢えと衰弱で仲間が死んでいきました。
死体は埋めることもできず、家の後ろで、カラスや野犬に食いちぎられていくのを見過ごすしか方法はなかったのです。
11月に父が病死し、私は新京の町で、乞食をやったり、閉鎖された廃坑にもぐって、石炭やコークスを拾ってパンと交換するのが日課となり、食えるものは何でも捉えました。
由利郷開拓団の避難行き総人数は233名、このうち、41日間の避難移動中に死亡した方11名、南大房身での僅か10ヶ月の間に亡くなった人数は104名で、なんと48パーセントの尊い人命がここで失われた最悪の場所であったと悔やんでいます。
21年7月8日、我が団が貢献したことが認められ、長春第一回移送として選抜され、生き抜いた117名(現地復員者3名含む)が引き揚げの先陣となり、15日胡芦島から乗船し、21日夢にまでみた日本の国、広島県大竹港に上陸し、手を取り合って喜びを分かちあいました。
帰国後の慰霊祭等の主な活動は、次のようになっています。
・昭和21年 8月10日 本荘町東林寺にて合同慰霊祭
・昭和22年 3月27日 「開拓民自興会」由利支部を結成。支部長佐々木健三
・昭和22年 8月20日 秋田県開拓物故者合同慰霊祭に我が団から50名参加
於いて 秋田市寺町 「妙覚寺」
・昭和26年 8月24日 本荘町東林寺にて七回忌大法要会
・昭和27年 6月 2日 「満州由利郷開拓誌」 副団長の進藤孝三著 発行
・昭和52年 7月16日 本荘町東林寺にて 33回忌並全物故者合同慰霊祭
・平成 元 年 8月19日 本荘公園に「満州開拓の碑」を建立、除幕式を挙行
県内唯一の鍛金によるステンレス・真鍮・銅の金属よる慰霊の彫刻を本荘市に寄贈
・平成 2年 1月31日 「満州由利郷開拓誌」副団長の進藤孝三著 再版
・平成 6年 8月21日 本荘市泉流寺にて 50回忌慰霊祭 77名参加
・平成17年10月14日 本荘公園にて 由利郷開拓団 60回忌慰霊祭
* 毎年、欠かさずに集会し、<思い出を語る会>として慰霊と平和を祈念してきました。
国策とはいえ、遠い大陸に夢を実現させながらも、故郷に帰らぬ人となった同志のことを、私たちは生涯忘れることはできません。
総員350名であった団員も、現在、連絡が取れる方は27名になっています。本荘市の多大なお力添えを頂き、平成元年に、この公園に「満州開拓の碑」を建立することができました。
この中に眠る皆さんの魂が安らかであることを、私たちは命のある限り見守っていこうと考えています。満州での苦い経験を語り継ぐことで、過ちを二度と繰り返さない確かな考えを郷土の人々に語り継ぐことを誓います。
平成17年10月14日 佐々木三郎団長長男 佐 々 木 良 三
<参考資料> 満州由利郷開拓誌 進藤孝三著
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