石碑5「皆川宗海翁之碑」

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ページ番号1003692  更新日 2023年9月25日

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写真:皆川宗海翁之碑

石碑5「皆川宗海翁之碑」の説明

本丸のほぼ中央に、「本荘藩儒臣 皆川宗海翁之碑 従四位金井之恭書」と刻まれ、裏面には「明治26年10月 不肖孫松本常磐・皆川東建」と彫られた大きな自然石の碑があります。

皆川宗海は幕末における本荘藩きっての儒学者です。寛政6年(1794年)4月21日本荘の谷地町に生まれました。幼名は次郎、のち美也吉といいましたが、諱(いみな・本名)は盛貞、字(あざな・別称)は子恭、宗海(むねみ)と号しました。

幼にして学を好み秀才のほまれ高かった彼は、城中三の丸の藩校「修身館」に学び、篠原鶴汀(=篠原珍平)、遠田赤沼の教えをうけ、20歳のとき中竪町に「雙巴塾」を開き、子弟の教育に当たりました。師赤沼は早くから宗海を東都に遊学させようという意志をもっていましたが、宗海の側にいろいろ事情があったため、大田錦城の「稽古学塾」に入門できたのは 文政4年(1821年)、28歳のときでした。「其ノ門二入ルノ日、直チ二塾長ト偽ル、平生ノ才識以テ見ルベシ」といわれてます。

経学は勿論ですが、医術・天文・地理・兵書・仏典・詩文・和歌に至るまで究めざるなしという博学でしたから、各地から錦城の門に集まって来た学生たちの追随を許さなかったものとみえます。34歳帰郷ののちは藩校にあって後進の指導にあたり、さらに藩の重要な役職を歴任しました。

宗海は明治8年(1875年)3月1日、院内村(仁賀保町)で亡くなりましたが、82歳でした。なお碑文を書いたのは幕末の志士で、のち貴族院議員となった群馬県出身の書家です。

石碑5「皆川宗海翁之碑」の位置

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