本荘城と城下町

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ページ番号1009746  更新日 2024年3月25日

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 本荘城は、山形の大名最上義光(よしあき)の重臣、本城満茂(みつしげ)の居城(本城城)として、慶長18年(1613)に完成しました。最上氏改易後は、本多正純を経て元和9年(1623)に常陸府中(現茨城県石岡市)から六郷政乗(まさのり)が入部し、以後六郷氏の居城として明治4年(1871)の廃藩まで存続しました。城は、鳥海山麓に連なる丘陵の北端にある尾崎山を本丸・二の丸とし、その北東麓を三の丸とする平山城で、「尾崎城」「鶴舞城」とも称される土塁(どるい)の名城です。

 本城氏時代には、現在の中竪町付近まで外堀を整備し、城域としていましたが、最上氏改易に伴って城は破却されました。元和9年に入部した六郷氏は、城や城下町を縮小し、現在の本荘公園や市役所付近を城域としました。17世紀後半になると、本丸にあった城主の居館や藩庁を、三の丸(本荘公園広場)に移し、政務の中心にしています。

 城下町は、城と一体的に建設されました。武家町が城を取り囲むように配置され、城に近接する現在の桜小路・表尾崎町・裏尾崎町には重臣屋敷、大沢川東岸から現在の谷山小路・美倉町にかけては足軽町が置かれました。また町人町は、城の北西にある大門(だいもん)で武家町と区切られ、現在の上横町・中横町付近一帯から大町・肴(さかな)町・日役(ひきじ)町・古雪町などにかけて、計画的に配置されていました。城下町特有の食い違いの十字路や丁字路、クランク状の鉤型(かぎがた)道路、短冊型の屋敷割りが残るほか、猟師町・鍛冶町・桶屋町など、職人町として町名にも城下町時代の名残がみられ、現在の市街地は城下町を土台に成り立っていることがわかります。

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