本城満茂書状(ほんじょうみつしげしょじょう)

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ページ番号1003581  更新日 2022年12月14日

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名称
本城満茂書状
員数
1幅
品質・形状等
折紙 軸装 縦33.2センチメートル×横46.5センチメートル
時代
慶長19年(1614)

写真:本城満茂書状

概要

本史料は、本城城主の本城満茂(1556-1639)が、城代をつとめる家臣の大泉茂敦に宛てた書状です。形状は折紙で、現在は軸装されています。
満茂は山形藩最上家の重臣で、由利郡5万5千石余のうち3万9千石余を与えられ、家臣団で最大の知行を有していました。内容は、藩主最上義光(1546-1614)の死去にもかかわらず、山形城並びに山形城下は静穏を保っていることや、当時、体調の思わしくなかった大泉を気遣い、温泉地として有名な温海(現山形県鶴岡市)で湯治をして静養するように勧めていること等が記されています。
57万石を領有する出羽国最大の大名であった最上義光は、この書状が出される十数日前の慶長19年(1614)正月18日、山形で死去しました。義光死去の報は、江戸幕府へは正月25日に伝わり、領内へは死去から十日ほど過ぎた正月末から触れられたようです。当時、満茂は、悪化する義光の病状を憂慮して、山形城内にある自身の屋敷に滞在していたと推測され、義光の死後、情報が解禁されて逸早く、本城城で留守を預かる大泉へ山形での情勢を連絡しています。
本城城は、前年の慶長18年2月には城郭の築造が進められており、城とともに城下町の建設も完成に近づいていたと考えられています。この時期は、まさに本城城と本城城下を拠点とした満茂の由利郡支配が確固たるものになりつつあったといえるでしょう。
本書状は、秋田県内において満茂書状の原本として確認される唯一の史料です。その希少性とともに、近世初頭には最上氏領であった由利郡を治め、現在の本市の基点を築いた本城氏と最上氏とのつながりを具体的に示す原本史料として唯一のものとなっています。また、義光死去直後の最上領の状況や満茂の動静を知る上でも本史料の歴史的価値は高く、貴重なものです。

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このページに関するお問い合わせ

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