古いヒュツテとの別れ

 

広報やしま、第256号、昭和52年8月1日号

 
 おんぼろ山小屋、
 すきま風がひゅうひゅうと吹きこむ山小屋、
 支柱がなければ、一ぺんでひっくりかえりそうなあの小屋がなつかしい。
 昭和26年に建ったあの木造の小屋も、老化したとのことで、昭和52年秋に建て替えになった。
 「広報やしま」に、古い祓川とお別れすることぱを載せるからなにか書くように言われる。
 たまたま、祓川に来ていた本荘高校山岳部のひとりに私の感想を口述して、一文をまとめてもらう。
 
祓川ヒュッテの想い出
 ながいあいだ、祓川ヒュッテ管理人として登山者の生命と、山の草木を守りながら、同時に、ヒュッテの保守管理にもあたる。
 いま、このヒュッテが建て替えられようとするとき、私は風雪のために年輸の浮き出した太い支柱に手をかけて、27年有余の歳月の中に去来した数々の出来事を想う。
 そして、このながい間にこのヒュツテを訪れた人々のことを思うのだ。
 ヒュッテは、車道もなかった頃、人の肩、馬の背、リヤカー等で材料をかっぎ上げられ、難儀のすえ建設された。
 そして、四季を通じて、多くの人々に利用されてきた。また、幾回かの改造もあったが、基本構造は建設当時のままだ。旧式で、手狭ではあったが、まことに馴染みある、暖かみのあるヒュッテだった。
 私は、古い山の友人たちから、くりかえしこんな苦情を言われたものである。「なぜ、こんな奥まで林道を延ばしたのか」「駐車場は善神坂の下にすべきだ」「竜ガ原に掘った溝で水位が下がってだめじゃないか、アシが繁茂してきたぞ」「自家発電、やかましい」「遊歩道は自然破壊だ」等々…。
 私は、こ.んな声を聞きつつ、わが意を得たりと思い、また、とまどいの表情もかくせなかった。
 山が大衆化して、アルピニストたちだけの所有物でなくなった時の移り変りも理解しなけれぱいけない。できるだけ多くの人々に、祓川に来てもらって、大自然のすばらしさを知ってほしいと思う。山に多くの人が来ることは良いことだと思う。
 だが、古い山の友が言うように、山が壊されてきているのも事実だと思う。
 前には、矢島駅から汗水流して歩かねばならなかったが、いまは車で祓川まで来る。
 そんなわけで、大自然への畏敬の念が失われ、白然を汚したり壊したりしている人たちも目につくようになった。
 いま、この古いヒュッテとのながい付き合いに終止符を打とうとしている。
 やがて、新しい顔の祓川が誕生するだろう。その時は、私も新しい山のモラルづくりに役立てたらと考えたりする。
 豪雨、風雪に耐えた、岳人たちの哀歓を秘めたヒュッテの記憶は、私の一生涯の宝物となるだろう。
 ながいあいだ、ありがとう、ヒュッテよ
 おまえは、その役目を十分にはたしたのだ。