矢島の地名由来

 
 源頼朝の奥州征伐の後、由利郡の歴史には長い空白期間が訪れる。大小多数の豪族武士が現れたり消えたりしたはずであるが、ほとんど知られていない。ただ、奥州藤原氏の武将に由利仲八郎維平という勇士があり、その武勇を買われて頼朝の家臣となった。その名からしても多分由利郡の主だったであろうし、後にも由利郡に由利氏がいたことを示す史料もある。又、前九年の役でほろぼされた大豪族の安倍頼時の子に、安倍宗任があり、彼は鳥海弥三郎とも言った。その子孫も由利郡にいたようで、鳥海山という名も、この鳥海氏に関係があるであろう。
 建保元年(1213)由利郡は由利氏から大弐局という女性の手に移った。大弐局は信濃の小笠原氏の女で、所領は更に彼女の甥の、信濃佐久郡の領主であった大井朝光に譲られたから、大井氏の勢力が由利郡に入ってきたことは確実であろう。
 約80年後の永仁7年(正安元年、1299)に、由利孫五郎惟方の領地であった由利郡小友村が、小早川定平に与えられたという文書がこれにつづく。そして鎌倉幕府滅亡寸前の元徳3年(元弘元年、1331)の日付のある銅板に刻んだ銘文があり、この銅板はもと鳥海山にあったというが、今は失われて銘文だけは伝えられている。それには由利郡の津雲出郷(つくもいづごう)において十二神将の像を鋳造したことが見えており、この出雲出郷こそ矢島の地に当たるものである。
 やがて南北朝の戦乱期になって、奥州の地に在って南朝方の有力な支えであった北畠顕信が、正平13年(1358)に由利郡小石郷乙友村の地を大物忌神社に寄進したという文書がある。室町時代から世は戦国に移り、百年を越える戦乱が続いた。そしてその最末期に近い頃、由利十二頭が登場する。
 由利十二頭とは戦国時代の末に由利郡の地方に居て相争った豪族十二氏であって、応仁元年(1467)に由利の地頭として入って来たと伝えるがその年代は断定できない。
 その十二氏は、仁賀保・矢島・子吉・岩谷・鮎川・玉米・滝沢など、何れも今日の地名と比べられるものであるが、仁賀保と矢島が最大最強であった。
 仁賀保・矢島の両氏は共に信濃佐久郡の領主の小笠原氏の一族で、矢島氏とは即ち大井氏のことである。なお、佐久郡には矢島という地名も、長土呂・軽井沢・立石などという矢島の地名もあって、矢島の称はこの佐久郡から大井氏によって移されてきたと考えることもできよう。
 

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