矢島藩の産業・馬政とせり市場

 
 生駒氏時代における矢島藩の産業の中で特に畜産とその馬政、せり市場の開設等については、他藩に誇る特異な存在をもっていた。
 鳥海山麓における畜産、特に馬産についてその歴史は古い。古記録によれば、矢島地方はもと畠山重忠の馬草料地であり、その代官が築館に居って領地のとりしまりを行なっていたともいわれている。矢島は、鳥海山麓という地理的好条件もあったが、戦国時代の根井、大井氏は、信濃に居った頃は、牧馬の豪族としての経歴をもっていたともいわれているが、当地方に移住後も、畜産を奨励したものと考えられる。そしてその頃すでに領内に馬のせり市場を開設していたとも伝えられ、その場所も当時の津雲出郷の中心地、現在の九日町とあら所との間にあった八日町通りであったともいわれている。
 戦国の偉傑大井五郎満安の愛馬八升栗毛も、矢島の自然が育くんだ駿馬であり、その血統を引く馬種はその後ますます発達した。特に天明3年(1783)九代藩主親章の代にいたって、矢島藩独白の馬産奨励制度が確立し、それにともなって、せり市場も一段と発展をしめすにいたった。
 この年、最上の新庄より勘左衛門、木津村三郎右衛門、三階村五郎兵衛という三人の馬商が来て、牝馬のせり売り市を下町に開設することを、時の駒改役土田小左衛門にはかった。彼は、藩にはかり、その詐可を得て後、館町にせり市場を開設したのがそのはじまりと伝えられている。その後、このせり市場は、藩の支配に属し、藩の奨励と相まって、ますます整備され、天保5年(1834)11代藩主親愛の頃には、館町より田中町へと広い範囲にわたって開設されるまでにいたった。当時の記録によれば、市場に集まった馬は、すべて陣屋の方向に馬頭をならべてつながれ、そのありさまは、実に壮観だったといわれ、又、市場の開設期間中、遠近より馬商、農民、商人等が多く城下に参集して、せり声も勇ましく、活況であったとのことである。
 当時にはじまったせり市場の制度は、二歳駒に限って市場に出し、売買することを許可した。せりによって売買が成立すると、その代価の百分の四を売買の両者から折半して「馬行銭」として、その金額を藩に納めさせた。又、せり市開設の費用等は、その開設された町内が負担する制度になっているために、町内においては「手綱銭」として、せり市場に出た馬一頭について、二十五文づつを馬商より徴収することを許可した。
 又、この開設中は、取締役として、藩よりは馬役一名、書記二名、駒頭役を出張させ、せり市場一切の事務を処理させた。その外別に、納戸役一名が出向して市場の総取締りをさせた。市場の雑とうを防ぐために毎日小役人二人を派けんしたり、駒頭二名を置いて、せり市場に立合わせ、その売買する代価のせり声を書きとめて置いて後、せり価の確否を判定させたりした。又、「馬代金交換所」を市場内に設けて、金銭の両替を行なわせるとともに、金の鑑定等をも実施したが、その役として町内より鑑定人四名を出して、その任にあたらせる等、実にいたれりつくせりの制度であった。
 このせり市場開設期間中は、広く各地より馬商が参集して、長い問城下に滞在していた。したがって、その取扱う金残も又ばく大なものがあっξ天保4年の頃の二歳駒の数は213頭、その代金は2318貫百匁と記されてある。藩においては、かかる馬商の存在を重視して、特に市場の開設期間中は、藩主がたびたび酒肴料を下付して、その労をねぎらったとのことである。
 こうしたせり市場の発達にともなって、馬の飼育もますます盛んとなり、その数もまた増加した。これは、鳥海山麓という地理的、自然的条件にめぐまれることにもよるが、又、歴史的な伝統と農民の愛馬精神等がもたらしたことも大なるものがあった。さらに考えられることは、矢島藩の馬政が、東北諸藩中でも、実にすぐれたものであったことに起因することも忘れてはならない。
 その矢島藩の馬政は、まず各村ごとに一名の駒頭と称するものを任じた。村の名主は馬帳を備えて、出生馬があるごとに、その毛色、持主を記録して代官に報告した。代官はこれを馬役に通じ、馬役は、村の駒頭を同道して、各戸をめぐって検査を実施した。その検査は、馬帳と出生馬と照合の上、たしかめるとともに、その飼育についての注意もあたえている。
 かかる矢島藩の馬政は、せり市場の開設とともに、藩政の一端としてさらに組織的に制度化された。後に他藩は、矢島のこの制度を範としたともいわれている。

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