農 事 改 良 の 先 駆 者

佐 藤 九 十 郎

 
 廃藩置県の大業が終ると共に、新政府は、殖産興業をもって国政の第一義となし、府県に対して物産増殖のみちを講ずるよう令した。秋田県はこの方針に基づいて、郡部に「勧農係」を配置してその指導機構を組織したのであるが、この勧農係は、県内の老農をさがし求めて48人を任命したもので、この中に佐藤九十郎・小番信という、2人の本町出身者を見出すことは、明治初期における農事改良史上まことに刮目すべきことである。
 たまたま、明治11年(1878)9月10日から10日間にわたって開催された、第1回秋田県勧業集会において席上秋田県の農事改良促進のために「種苗交換会」を開設すべきであるとの意見書を提出した人が、だれあろう佐藤九十郎であったことが判明した。この意見書は直ちに採択されるところとなり、同年11月29日から7日間、第1回種苗交換会が八橋植物園を会場として開催された。
 後年、石川理紀之助の書いた種苗交換会士には「佐藤九十郎はこの種苗交換会の設立に最も力ありしというべし」とその功績をたたてている。実に秋田県種苗交換の父たり母たりとも称すべき恩人である。
 

佐藤九十郎

佐藤九十郎は、矢島町舘町の庄屋藤屋市郎兵エ(8代目)の嫡男として、弘化元年(1844)に生まれたが明治5年(1872)に平沢村に転任して帰農したらしい。同11年にぬきんでられて第4大区第小区(仁賀保地区)の勧農係となり、その職見が認められて、翌12年には新設早々の由利郡役所書記に任用された。宅地利用の果樹栽培や、桑園養蚕を加味した複合経営を実践指導して、生涯のほとんですべてを由利郡の農事改良に尽くしたのである。
 明治18年本荘町桜小路に転居していたが、大正3年(1914)71歳の長寿をまっとうして他界された。
 

小番 信

 小番信は、矢島藩士出身の精農家であった。明治16年に秋田県では県内を4大農区に分け、1区ごとに篤農家を抜擢して「農区勧業委員」に任命した。その時小番信は由利・仙北両郡の担当として、委員の列に名をつらねている。この勧業委員へ、毎月15日にわたって、郡内農民の巡回指導に当たっていたが、当時農事指導の有力団体であった暦勧農話連のメンバーとして、石川理紀之助等の老農と交わりを結んでいた。同14年に東京で開催された全国農談会にも、森川源三郎とともに県代表として出席している。
 

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