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若い藩主をして大儀を誤らしめず、その大志を貫徹させたことは、小野元佳の教育的感化も大きな力となったが、その底流をなすものに、勤王の先駆者として荊棘の道を歩み、歴史上のに大いなる炬火を点じた矢島藩士土田衡平の名も忘れることができない。 | |
土田衡平は、天保7年(1836)7月22日、矢島藩士土田又右衛門を父として生まれた。幼より父母に死別し、後親戚に身をよせて人となった。漢学を新田勘七に学び、又、島源蔵について関口流の柔術を学び、その奥義を究めた。安政元年、 | |
9歳の時、藩の選抜をもって江戸藩邸におもむき留守居役書記となる。時、内憂外患こもごもいたって国内騒然たる時、勤王の心おさえがたく、ついに脱藩す。その時齢23歳。ただちに京都におもむき岩倉具視と交を結び、多くの志士とともに活躍するかたわら、藤本鉄石について軍学を学びその奥義をきわめた。 | |
勤王の志士 土田衡平 |
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その後、再び江戸へ帰り、古賀茶溪の門に入り、その学塾久敬舎に学ぶ。同門の士に越後長岡の人河井継之助あり、「衆に超出する者を河井継之助と土田衡平となす。」と同門の人ひとしく敬仰したという。 |
文久3年(1863)大和に天誅組の義挙あり、衡平これにおもむいて戦い、敗れて後足利に身をひそめ、その地にあって関東の志士と交わり勤王倒幕に活躍した。翌元治元年、水戸藩士藤田小四郎等が中心となり筑波山によって天狗党を結成し攘夷のさきがけを決行しようとした。その中に騎兵隊長田中源蔵あり、土田衡平の非凡の才あるを知り、しきりに決起を要請す。衡平ついにそのもとめに応じて田中隊の参謀となり、広く関東常野の地において幕軍と戦ってこれを敗走させ、常に勝利を収め得たのは、ひとえに衡平の奇策と用兵の妙によるという。後、助川の戦いにおいて利なく、田中隊も四散す。衡平小船をもって同志とともに海へのがれ去ったが、たまたま台風にあい、漂流の末相馬藩中村にたどりつき、捕らえられて同年11月5日斬刑に処せられる。齢29歳。辞世の歌3首あり。 |
徳川のにごりに身をや沈むとも、清きその名や千代に流れん | ||
白露の霜とかはれる今ははや 君が衣手うすくなるらん | ||
古もかかるためしを菊水の 流れくむ身となるぞうれしき |
世人評して「筑波党中の人材は藤田を第一とし、つぎは土田衡平なるべし。」「土田は筑波党中第一の人物なるべし。」と激讃されるほどじつに天下の偉材であった。 | |
郷土の生んだかかる偉材も、維新のあけぼのを見ることなくして、露と消え去ってしまったことは、おしみてもあまりありというべきである。 | |
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土田衡平の墓 |
志士土田衡平碑(矢島神社境内) |
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矢島の歴史より |
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