生駒領内の状況

 
 寛永17年、高松城主生駒高俊、讃岐の国を没収されて後、出羽矢島10,000石の領主となった。この時、隣国本荘藩六郷兵庫頭との問に、治政上より領土替地の話がおこり、談議をととのえ、その結果をただちに公儀へ願い裁許となった。よって次のような生駒領仁賀保郷と六郷領下村、玉米、向矢島筋との間の村がえが実施された。
 
   〇六郷家より生駒家へ渡された地所
    郷内村、平林村、坂ノ下村、新荘村、中山村、八ツ杉村、指鍋村、木在村、
    杉沢村、小板戸村、上里村、巾里村、下里村、法内村、新輪村、河内村、
       高、4,639石1斗7升6合   村数 合わせて16
 
   ○生駒家より六郷家へ渡した地所
    塩越村、寺石村、金浦村、飛村、黒川村、芹田村、三森村、前川村、大竹村、
    中里村、伊勢居地村、三十野村、樋口村、百目木村、館井地村、三日市村、
       高、4,639石1斗7升6合   村数 合わせて17
 
 これによれば向郷即ち現在の坂の下、新荘、立石、木在の各部落は、この時以前は、六郷氏の領地であったことになる。この領地交換によって、はじめて生駒氏の領地となったのであり、その時は、「寛永17年閏7月」と記されてある。
 
 明暦3年(1657)本荘藩滝沢郷と矢島向郷八ケ村との間に起こった立石山に関する境界争いは、万治2年にいたる三ケ年をついやして後、はじめて解決した大がかりなものであった。
 問題となった立石山一帯は、寛永17年の領地交換によった両藩の境界線に近く、それだけに境界に判然としたものがなかった。したがって、もとは、この地に近い農民は、たがいにいりこんで、なかば慣習的に土地を利用していたが、その後、両藩の境を接するにおよんで、たがいにその土地の所有を主張したことから、この問題が大きく紛きゅうし、ついに江戸へ訴状を呈し、公儀の決裁を得るまでにいたった。
 この紛争の直接の原因となったのは、明暦3年(1657)4月20日、この日木在村の人達が、立石山の二股というところから、かっちき草を刈りとって、本荘領分の大砂川部落の近くを通った時、大砂川の勘四郎という者が、これを見てその青草と草刈鎌をとり押えたことからはじまる。明暦3年6月19日、滝沢の三之丞、七兵衛の両人が、杉沢村の伊左衛門を介して、木在村の名主三浦治部之助を相手として抗議し提訴した。以後、両者たがいに論争をくりかえし抗議しあったが、いっこうに解決のみこみを見出し得ないとさとった滝沢の人達は、明暦3年11月1日、江戸にのぼって評定所へ訴状をさし出した。
 これに対して矢島側のものが江戸に招かんされ、取り調べを受けることになった。以後万治2年にいたる三ケ年の問、矢島側の人達は江戸に滞在し、又前後数回にわたって江戸と矢島の間をほん走し、解決につとめた。最後に矢島側は、藩のうしろだてを得て、向郷八ヶ村の団結と藩の支援のもとに、万治2年の冬、木在村の治部之助、指鍋村の甚兵衛、中山村の弥右衛門の三人の者は、絵図と返答書をふところにして江戸におもむき、ともに力を合わせて解決にほん走した。
 万治2年7月22日、公儀の直接調査の結果、矢島側の勝訴となった。この結論を得るまでには、矢島側向郷の人達の固い団結と、直接ほん走した人達の非常な苦難と闘魂、実地調査の時の機智にとんだ逸話、後日物語など「立石くじの物語」として今日なお伝え残されている。
 この勝訴によって立石山を中心とした4〜500ヘクタールにおよぶ広大な山林原野は矢島側のものとなった。その後、矢島藩内において、大小いくつもの山林原野等の境界争いがあったが、中でも公儀を相手として争ったものとして、この事件は、最も大なるものであった。
 
 宝暦6年(1756)矢島藩の郡奉行によって書かれた「御領分覚書」によって二百十数年昔の郷土の実態をさぐってみよう。
 現在の矢島町にあたる土地のありさまを調べてみると

前    郷

御代官 斎藤徳右衛門 大名主 半田亦右衛門 小名主    小左衛門、理兵衛、甚兵衛、作兵衛、  太右衛門、治左衛門、勘兵衛、仁助、久四郎
小名主 組頭 石高 家数(軒) 人口
本田 新田
城内村 小左衛門 仁左衛門他5人 554石3斗7升6合 56石2斗1升3合 67 149 124 273
七日町村 理兵衛 与左衛門他5人 372石1斗8升4合 30石4斗5升4合 74 149 124 273
荒沢村 甚兵衛 吉六他5人 347石8斗3升8合 40石3斗1升7合 71 188 119 307
須郷田村 作兵衛 三郎右衛門他4人 170石9斗7升2合 7石9斗1升 18 52 44 96
九日町村 太右衛門 五郎左衛門他4人 206石9升2合 20石9斗7升 30 77 51 128
新処村 治左衛門 清三郎他3人 268石7斗3升2合 17石9斗5升9合 43 112 75 187
あら町村 勘兵衛 佐治右衛門他4人 191石8斗1升8合 11石7斗6升6合 14 30 17 47
金ヶ沢村 久四郎 長右衛門 18石8斗4升7合 4石2斗6升1合 9 15 12 27
小板戸村 仁助 与四右衛門 127石2斗2升1合 8石3斗8升6合 27 62 37 99
2258石8升 198石2斗3升6合 353 834 603 1437

向    郷

御代官 斎藤徳右衛門 大名主 三浦治部之助 小名主  善左衛門、与市右衛門、市助、助左衛門、 助太郎、伊左衛門、嘉左衛門
小名主 組頭 石高 家数(軒) 人口
本田 新田
坂ノ下村 善左衛門 庄左衛門他3人 389石8斗1升2合 39石5升 55 165 98 263
新荘村 与市右衛門 治郎左衛門他2人 333石1斗5升9合 28石4斗3合 50 119 84 203
中山村 市助 与治右衛門他2人 218石4斗8升1合 46石4斗1升8合 49 132 95 227
八ツ杉村 助左衛門 甚兵衛他2人 394石3斗3升9合 19石7斗6升6合 49 150 106 256
杉沢村 伊左衛門 勘兵衛他1名 394石3斗3升9合 19石7斗6升6合 58 198 126 324
川原村 嘉左衛門 新左衛門他2人 119石4斗9升6合 12石7斗2合 17 48 32 80
木在村 三浦治部之助 助太郎他2人 178石1斗5升8合 9石7斗8升2合 19 64 41 105
2027石8斗7升4合 175石5斗8升8合 297 876 582 1458

合     計

4285石9斗5升4合 373石8斗2升4合 650 1710 1185 2895
 
そのほか生駒家領分として
○直根郷  代官 小番軍八支配、猿倉、下直根、前の沢、上直根、百宅、高野台
        戸数 158戸  人口 940人 (男557人、女383人)
○笹子郷  代官 小番軍八支配、下笹子、平林、上楚子、中村、天神
        戸数 202戸  人口 1,377人 (男802人、女575人)
○川内郷  代官 佐藤平四郎支配、下川内、牛越、伏兄、上川内、小川
        戸数 327戸  人口 2,247人 (男1,298人、女947人)
○下郷村  代官 山科理右衛門支配、蔵、法内、宿
        戸数 363戸  人口 1,913人 (男1091人、女822人)
○下米郷  代官 山科理右衛門支配、館前、館野、老方
        戸数 301戸  人口 1,370人 (男816人、女554人)
○仁賀保  代官 佐藤平四郎支配、本郷、大須郷
        両村 戸数 83戸  人口 399人 (男220人、女179人)
○大沢郷  代官 服部藤太夫支配、宿、寺館、木うり沢
        戸数 225戸  人口 1,234人 (男686人、女548人)
 
  領内総石高  14,656石7斗6升4合
  総戸数     2,334戸
  総人口     12,465人 (男7,249人、女5,216人)
  総村数     64ヶ村   大名主 9人   小名主 46人
 
 大沢郷は、現在の仙北郡西仙北町である。「とび領分」として境を秋田・亀田両藩に接する持異な存在をもっていた。なお領分の耕地中、新田が本田にくらべて約七分の一の面積となっているが、この開発は、当時の藩の政治的な配慮が強くなされたために、領内全般にわたって広く開田をみるにいたったのである。
 当時の人口は、現在にくらべて、どの地においても少数であるが、これは近世の農村生活が極度に疲弊し、これ以上の人口の増加を求めることは、農民それ自体の生活をおびやかす結果となるためであった。したがって、当時不自然な「間引き」等と称する人口よく制の方法がとられたのも、当時の農民が生活をみずから護るやむを得ない手段でもあった。又、男子に比して女子の人口が著しく減少しているのも、当時はたらき手としての女子の立場を考えるとき、よういに解されることであろう。
    

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