南北朝時代の由利郡

 
 北条氏が滅亡して間もなく、南北両朝の対立抗争の時代となったが、この時東北方面では、南朝方の北畠顕家、顕信の軍に加わり、遠く都まで攻め上るといった長年の戦乱のため、全く荒廃した時代であった。従って歴史の上にも、また郷土的記録にも資料がとぼしく、わずかな断片的記録と、雑多な郷土の物語が伝えられているに過ぎない。それ故系統立てて述べることは不可能であるが、その中から二、三の問題を拾ってこの時代の変遷を考えよう。
 
1.由利氏鳥海氏の闘争物語
 後世の由利十二頭記や、その他の物語には、鎌倉時代に由利郡が大弐局の所領になったことなどには一切ふれず、この時に由利、鳥海両氏の争闘が行なわれたことが記されている。この衝突は花園天皇の応長元年(1311)3月に、由利政春が栗山館主鳥海氏を討ったことから始まるのである。この時の理由は記されていないが、同じ年の5月17日には、仁賀保院内の七高山神社祭礼の際、争論があって再び合戦をまじえたということからすると、鳥海山信仰についての主導権争いにあったとも見える。
 その後由利氏は次第に鳥海氏に圧迫されて、後醍醐天皇の正中元年(1324)には、由利政春が白刃して一旦は滅んだ形になった。その子孫は姻戚である庄内の武藤氏のもとに保護されていたとも伝えられている。このように由利氏に代わった鳥海氏であったが、延元3年(1338)常満律師宗盛の時、その家来であった渡辺隼人、進藤長門等のために殺害されて滅んだと伝えている。このことはそのまま信ずることはできないが、当時由利、鳥海両氏が存在していたことは、他の記録によっても事実のようである。これは鎌倉時代に由利氏が所領を没収されて、大井氏の所領になったということから考えて、この両氏の存在をどう解すべきであろう。
 このことを考えると、由利郡の領主となった大井朝光以後どのような関係にあったかということである。大井氏の系図から見ると、朝光の子には光長一人だけであった。従って由利郡が大井氏の所領になったにしても、統治には代行者を立てざるを得なかった時代が考えられる。その後光長には多数の子供があったから、その頃になると、その直系が統治にあたったことも考えられる。従って朝光から光長に至る期間、大井氏の代行者となったのが残存していた由利、鳥海氏でなかったかと思われる。
 ここで注意しなければならないのは、この両氏の闘争を地域的にみると、初めは仁賀保方面に限られていることである。それ故これは一地方の争闘で、両氏が全郡を支配していたかどうかは疑わしい。後で述べようと思うが由利、鳥海両氏の闘争以前に、小早川氏の所領が小友郷にあったことからも考えられることである。
 
2.鳥海山の銅器識文と矢島
 この時代矢島のことは、ほとんど分からないが、ただ一つ鳥海山の銅器識文という銅板に刻んだ識文が残っている。前後の関係は分からないにしても、確実な矢島の当時を語る史料であることは疑いない。
 この識文は、昔鳥海山の岩窟にあったが、いつの頃か飽海郡方面に持ち去られ、北の坊が所持していたということである。今はその所在も分からないが、幸いなことには、その文面が、徳川時代にできた耽奇漫録につぎのように記されている。
○封  敬白
  奉鋳於羽州由利郡    大旦那   源正光
  津雲出郷十二神将    併      滋野行家
  志趣金輸聖王天長    仏師    七郎兵衛
  地久御願円満兼又    本願    一阿上阿
  本願大旦那二世悉    本願    仏子心海
  地結緑合力除災与楽   大旦那  沙弥長心明心
○封  元徳三年太蔵辛末 六月 日
 この願文については、多くを語る紙面を持たないが、この中にある年号、津雲出の郷名領主名等は、当時を語る問題を投げている。年号は元徳3年(1331)とあるが、これは後醍醐天皇の時代で、古伝によれば由利、鳥海両氏の闘争の行なわれた時でもあった。この願文は十二神将を鋳造して鳥海山に奉納した時に、その趣意を銅板に記したものである。つぎに矢島の領主と見られる源正光と滋野行家についてである。これについて検討すると、大井氏は小笠原氏の分流で、もとは源氏であるから源と記し、また根井氏の本姓は滋野氏であるから滋野と記したことは明らかである。従って当時の領主は、大井正光と根井行家であったことになるのである。
 大井正光のことを大井氏の系図によれば、朝光から四代にあたる人に政光があり、その父は光家という人である。仁賀保氏もこの光家から出たといっているから、この識文にある正光は、政光と同一人物とも考えられる。一方根井氏は木曾義仲の重臣根井行親の子孫と伝えているから、名乗によっても根井行家と見られる。それ故、由利十二頭記に、応仁年代の大井、根井の由来を説いているが、少なくともこの時代すでに両氏が存在していたことは確かであろう。従来この時代を語る場合、かかる史料を見ることなしに、由利、鳥海両氏の存在だけを伝えていることには疑いを持たざるを得ない。
 津雲出郷が矢島の旧郷名であることは、修験道の開創にあたって、ここからなされたという記録や、さらに大井五郎が荒倉館落城の時の歌というものにも、この郷名をよみこんでいることによっても分かる。
        津雲いでやしまの沢を詠むれば
             木在 杉沢 佐世の中やま
 また現在矢島の町から元町へ通ずる間木の西側近くに、明治の初年まで津雲の池というものがあった。昔は問歌的に噴水して、十数メートルにも上っていたので、鳥海山からも眺められたものだと古老が伝えている。それ故、津雲出郷というのは、元町、相庭館、間木の辺を中心としてできた集落の郷名であった。
 またこの願文はどんな意味を持っているかは明らかでないが、元徳3年という年号に注意しなければならない。この願文には元徳3年6月とあるが、8月10日には元弘と改元され、その年の9月には後醍醐天皇が北条氏に攻めたてられて、笠置の行在所がおちるといった激動期であった。このような重大事変が起ころうとしている数ヶ月前、これ等の領主は、鳥海山に対して何を祈ったのであろうか。時代からしても、まことに深い謎を含んでいる。
 
3.由利郡内小早川氏の所領
 この文書は昭和18年に初めて発見したもので、この時代の由利郡史に新しい問題を投げている。数種の文書があるが、最初の文書だけをかかげよう。
   可令早小早河太郎左衛門尉定平法師法名仏心領知出羽国由利郡小友村由利孫   五郎維方跡事
   右為召進筥根山悪党人之賞所被宛行也者早守先例可致沙汰之状依仰下知如件       永仁七年四月十日                                        陸奥守平朝臣御判
 この文書は前の元徳3年の鳥海山願文から、わずか32年前のものである。これは今まで全く見当たらないもので、しかも由利郡から遠くはなれた広島県安芸郡の領主である小早川氏が伝えていたものである。
 この時代由利郡内に小早川氏の所領があったということは、あまりに突然の感があるが、小早川氏は元来土肥氏から出た家で、小笠原氏や大井氏とも親戚関係にあった。そんなことから由利郡内に所領のあきができた時、恩賞として乙友郷が与えられたということになるのであろう。そして乙友郷の前領主は由利維方とあるが、この名前は由利氏の系図(由利公正伝記載)にも、他の記録にも見当たらないものである。
 この乙友の所領は小早川氏の所領になってから約60年たった、正平13年には、北畠顕信が戦勝祈願のため鳥海山に寄進しているのである。
 
4.由利異説と当時の状況
 由利異説というものを初めて見たのは、阿部竜夫氏の「由利の面影」を読んだ時である。これはどこの古伝であるか分からなかったが、その後松ヶ崎方面に伝わるものであることを知った。
 それによると正中元年(1324)に、由利氏が鳥海氏に滅ぼされた時、信濃にのがれていた由利維貴が、延元元年(1336)信濃の応援を得て帰国恢復をはかったというのである。その応援軍に信濃守の一門、小笠原甲斐守朝保、同国佐久郡大井庄の地頭大井小太郎光長の二男、大井五郎光泰(或は光重)同国同郡池田庄地頭、小笠原伯者守光貞の3人があった。それ等のものが出羽国大山に至り、武藤盛氏の助けを得て、鳥海氏の家臣である進藤、渡辺の逆徒を討ったということになっている。その後由利維貴は岩倉館に、甲斐守は岩谷館に、小笠原光泰は八森古城に、伯耆守光貞は大野館に拠ったが、その後次第に衰えて、由利郡は無郡司時代となったと伝えている。
 これは由利郡の南北朝時代の由利、鳥海両氏の争闘以外の伝えであるところから、由利異説と称したものであろう。この方が鳥海山願文に照らして事実に近いと思われる。なおここに出ている小笠原朝保は、後の岩谷氏、大井五郎光泰は矢島の大井氏、小笠原伯耆守光貞は赤尾津氏の祖となったと推定される。大井光泰は大井氏系図の中にあっては、孫二郎長土呂住とある人にあたっている。
 以上は松ヶ崎方面の古伝であるが、後に出て来る打越旧記とも関連があり、資料に乏しいこの時代としてはまことに興味をひくのである。
 
5.北畠顕信の鳥海山願文
 由利郡小石郷乙友村が、小早川定平に与えられてから60年たった、後村上天皇の正平13年(1358)8月20日に、北畠顕信が大物忌神社に対し、この乙友村を寄進したというつぎの文書は、現在国宝として吹浦の大物忌神社に伝えられている。
   奉寄進 出羽国一宮 両所大菩薩由利郡小石郷乙友村事 右為天下興復 別干陸   奥出羽両国静謐 所奉寄之状 如件
         正平十三年八月二十日     従一位行前大臣源朝臣
 この文書から考えても、当時由利郡が南朝方であったと推定されるが、今まで小早川氏の所領であった乙友村が、どうして鳥海山に寄進されたかということである。このことを小早川文書によって検討すると、その後小早川氏は元弘3年(1333)と暦応3年(1337)に乙友村に対する安堵状を受けた文書がある。その中に暦応という北朝の年号を用いていることからすると、小早川氏一族はその頃北朝に属したことがうかがわれ、そのために所領を没収されたとも考えられる。次の時代を示す資料と思われる打越旧記にも、小早川氏の存在が認められないことからしても、正平13年以来由利郡からその影を没したと見られるのである。
 またこの外に、この時代を語るものとしては、太平記評判という書物があり、北畠顕信に属した奥州勢として由利、鳥海、赤尾津などとあるのを見ても、由利郡内領主の多くは当時南朝に属していたと見られる。
 
6.矢島と楠氏の関係
 ここで楠氏と矢島の由来を述べようとするのは、最初の関係が南北朝時代にあったと考えられるからである。
 私が初めて関心を持ったのは、小学生の時、中山の高建寺に立ち寄り、本堂の棟に菊水の紋章を見かけた時であった。その後、同寺の伝えを聞いたり、戦前、寺の鐘楼にあった鐘銘などを調べた結果、この寺は応永34年(1427)に楠氏の子孫である能勝傑堂禅師によって創建された寺であることを知った。
 ついで鳥海村川内にある元弘寺は、南朝の菩提を弔うために建てられたとか、また各所にある打越館と楠氏の遺党とのおぼろげな古伝まであることを知り、これ等のことは矢島の歴史とどんな関係があるかに注意を払って来た。その間、親川に打越楠氏のあることを知り、一昨年親川を訪ねて現当主である楠多右衛門氏にも会い、矢島との因縁を聞く機会もあった。
 このようなことから考えて楠氏の本領と遠く離れたわが郷土に、どうしてつながりがあるかというと、一応は由利郡が南朝の勢力下にあったからということになるが、もっと直接な理由がなければとも思った。その後昭和18年偶然な機会に、新田義貞根本資料の中からつぎの文書を発見したのである。
              東京帝大文学部所蔵
       由良文書
             集古文書には横瀬家所蔵とあり
  出羽国屋代庄地頭職事、被充行正成畢。早可被沙汰居彼代官於庄家者天気如此。
  仍執達如件。
       四月九日               左衛門権左範国(岡崎範国)
     新田兵部大輔殿(岩松経家)
 この文書は建武元年4月9日、出羽国屋代庄を楠公に賜わったというものである。それ以来屋代の地名を郡内で探し求めたが、まだ確認するまでには至っていない。たまたま日本歴史附図の(第22図古代の荘園分布(2))を見ると、由利郡内本荘附近に「屋代庄?」とあるのを発見した。これは専門家から見て根拠のあることとして掲げられたものであろう。この屋代庄と楠氏の関係は今後さらに注目すべき問題と思われる。
 

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