鎌倉時代の由利郡

 
 平安時代の後半になると、陸奥の国に勢力を持っていた安倍氏の勢力が強大となるにつれて反乱となったが、出羽の豪族清原氏の協力によってこれを滅ぼすことができた。これに代った清原氏も、一族の不和によって戦乱となったが、これ等が八幡太郎義家の活躍した前九年、後三年の両役であった。
 ついで東北藤原氏三代の全盛を迎えたが、これも問もなく頼朝の滅ぼすところとなった。このように安倍氏、清原氏、藤原氏と変ったが、この三氏は姓こそ違うが、血族関係からすれば、ほとんど一家と見られるものであった。
 由利郡はそれ等の時代、初めは宗任の一族によって支配されていたと思われるが、その後鎌倉時代になると、以前からの植民が次第に増大したと見えて、その住民を代表する氏族がこれに入れかわって勢力を持つようになったことが認められる。それが由利氏なのである。そのことは今まであまり語られなかったが、由利氏の発祥について検討した結果、始めて明らかになった。
 頼朝の藤原氏追討の際、由利郡の領王は藤原氏の従臣由利仲八郎維平であった。維平は敗戦後、頼朝の前に引き出されて訊問されたが、その勇敢な態度が頼朝に認められて御家人になったという物語は、鎌倉幕府の日記体の史書である東鑑にある有名な話である。
 維平はその後、藤原氏の重臣、大河兼任の反乱が起こった建久元年(1190)に、毛々左田(今の新屋)で戦死した。それから23年後の建保元年に和田義盛の乱が起こった。その時維平の子維久は、和田氏の乱に加わったという疑いを受けて、ついに領地を没収されたのである。それと同時に由利郡は頼朝の側女と思われる信濃守小笠原遠光の息女、大弐局に賜わったことも同書に明記されている。
 あらたに由利郡領主となった大弐局は女性であったので、その所領は甥にあたる信濃の佐久郡の領主大井朝光に譲られた。従って由利郡にはその系統がやってきて統治にあたったと考えられる。後世の由利十二頭もこの時代にさかのぼって考えねばならない。この時代から十二頭の終末まで凡そ400年であるが、その間に南北朝時代からの混乱によって、記録や古伝を失ない、由利郡史は全く空白状態となった。
 かかる理由から、徳川時代の初期に書かれたという由利十二頭記には、応仁元年(1477)というはるか後世に、十二頭が初めて信濃から由利郡に下ったとしているのは、全く東鑑の記事を無視したものといわなければならない。以下断片的ではあるが、この時代の注目すべき事項をあげて由利郡の推移を考えよう。
 
1.由利十二陣代と当時の状勢
 鎌倉時代の初め、・田利氏は十二陣代を置いて郡内を治めていたという古伝がある。その中で最初のものは、つぎの八陣代と四要塞とである。八陳代のあった場所は関、冬師台、田代、軽井沢、荒波、黒瀬、桂根、田原等で、四要塞は汐越、平沢、大野、羽川等であった。この中で八陣代の数は、平安時代の八郷にあたり、後世の配置と違う点でその古さが感ぜられる。
今一つの十二陣代というのは、つぎのような配置であったと伝えている。
      由利維友    成瀬館
    1.平沢       由利将監維義      
    2.岩谷元館    岩谷(清原)監物武信
    3.大野       由利志摩介維正    
    4.岩倉       由利八百八郎維忠
    5.天鷺       由利弾正維知      
    6.新城       新城(金剛)蔵人秀生
    7.大正寺新波   大正寺(安東太郎)維季  
    8.根代       根代(由利)大毅維晟
    9.川大内須山   西城戸桂之助高衡    
   10.下村       芦名太郎清氏
   11.曲沢       津久井五郎行氏       
   12.城内       由利中務維張
 これを前の配置と比べると、次第に後の由利十二頭の配置に近づきつつあると同時に領主名を見ると、藤原氏滅亡直後の様相が現われている。
 まず総領主と見られる由利維友というのは、東鑑や由利氏の系図と照合すると維平にあたるが、本拠は鮎川の成瀬館に置いていた。
 また十二領、王の氏族関係を見ると、直接由利氏と関係あるもの六名、その他の氏族として、安倍氏系は大正寺新波の安東太郎維季、清原氏系は岩谷の清原監物武信、藤原氏系は川大内須山の西城戸高衡、木曾氏系は新城の金剛蔵人秀生、和田氏系は下村の芦名太郎清氏、曲沢の津久井五郎行氏等となっている。このように由利氏以外の民族のいたことを見ると、藤原氏滅亡後、領主として存続を認められた由利氏は、その配下にこれ等の旧氏族を包含して統治にあたった時代のあることを示している。
 その中で矢島と関係あるものは、新城の金剛蔵人と、城内の由利中務維張とである。新城は今の新荘で、昔は新城とも記されているから矢島の地点と考えられ、また城内の地名は由利郡内においては、矢島の城内だけのようであるから、それにあてられる。
 このように義仲の重臣であった金剛別当や、根井氏の系統が矢島にいた形跡があるのは、由利氏を始め住民の多くは古くから信濃との関係があったからであろう。
 
2.木曽義仲の残党と矢島の関係
 信濃の中原兼遠等に擁立されて、平家追討の旗をあげた木曾義仲は、京都に攻め上って、一時は天下に号令したが、間もなく頼朝に追われて、寿永3年(1184)近江国粟津ではかなく最期をとげたのである。
 その後、この一党は史上から消えたかに見えるが、東鑑を見ると、これ等の残党は平泉の藤原氏を頼って存在していた形跡がある。ここに掲げた平泉の藤原氏旧邸附近の図を見ると、金剛別当秀綱や、由利八郎と称する屋敷が見える。また頼朝の藤原氏追討の記事を見ると、福島県にある阿津賀志山の戦いでは、金剛別当秀綱の奮戦を伝え、ついで建久元年(1190)平泉を追放されたことが記されている。このことから考えると、反頼朝勢力は、藤原氏のもとに集っていたことが分かり、藤原氏滅亡後は由利氏を頼って余命を保っていたと見られる。
 由利郡の中で、矢島は住民関係で信濃と特につながりのあったことは、十二陣代の中に金剛別当の子孫と思われる金剛秀生がある外、古くから矢島には木曾義仲の重臣根井氏がいたことでも分かる。根井氏については藤原氏滅亡後の足跡は伝えられないが、後世の関係から考えると、恐らく金剛氏と同時に矢島に来ていたものであろう。
 従って信濃と矢島のつながりは、この時代にさかのぼって考えなければならない。
 また根井氏は信濃の記録によれば、矢島氏あるいは八島氏とも称していた。津雲出郷の郷名がすたれて、後世矢島の地名で呼ばれるようになったのも、根井氏との古いつながりを示すものであろう。その外矢島、根井の地名を始めとして、長土呂、軽井沢等、信濃の佐久郡にある同じ地名が、矢島だけにあるのは、最も古い時代から深いつながりがあったことを証するものである。
 
3.由利郡領主由利氏と大弐局の交代
 由利維平が戦死したのは建久3年(1190)2月3日であるが、その後維久が後をついだ。その頃鎌倉では頼朝の死後、外戚である北条氏と頼朝の旧臣の間に不和を生じつつあった。元久2年(1205)には畠山重忠が殺され、建保元年(1213)には和田義盛が北条義時を攻めて敗死するといつた事件が起こった。その時由利維久も鎌倉にいたが、和田氏に味方したという疑いで、由利郡の所領を没収された。それと同時に大弐局に賜わったと東鑑に記されている。
 この問題を考えると、前に記した由利十二陣代の中に、和田氏系統が二人も入っているのと合わせ考えても、和田氏と由利氏とは深い関係があったことを示すものである。この両者の戦いでは、由利氏が正面きって参加したのでもなかったが、疑いを受けたのはかかる関係があったためであろう。豊田武氏の「東北の歴史」を読むと頼朝から所領を給与された中に、和田義盛に由利郡とあるのは、どんな史料によったか分からないが、何か理由のあることであろう。
 新たに由利郡の領主となった大弐局は、信濃の領主小笠原遠光の息女で、局の母は和田義盛の息女であった。遠光はかの有名な新羅三郎義光の曾孫にあたる人である。東鑑を見ると、文治4年(1188)7月4日、遠光の寵愛の息女、頼朝の党中に参ずとあり、同年9月1日の条には、遠光の息女初めて頼朝に謁見、大弐局と称すとある。その後相ついで頼朝には頼家、実朝などが生まれたが、その時何れも局が介錯をつとめたことも記されている。また信濃の小笠原系図には、局は頼朝に寵愛されたが子がなかったので、甥の大井朝光を後嗣にしたと記されている。従って局は、頼朝の側女のようであるが頼朝の死後は東鑑にも記事が見えないのに、実朝の将軍時代、建保元年(1213)5月7日突然由利郡を賜わった記事となっている。
 局と大井朝光との関係はどうなっているかは、小笠原系図を見なければならない。なお大井朝光の父にあたる小笠原長清には家系によれば、十九人の子供があった。
 後世由利十二頭の多くはこの長清の子朝光から出たとしているから、ここでその時代と朝光という人に注意する必要がある。
○大井氏系譜中の朝光の記事
 信濃国大井知行。七男母家女房。大井七郎或は大井太郎と号す。八条院御領大井庄領主大井人郎朝光。朝光長清の七男。母は上総介平広常の女なり。幼名松殿。後父長清の釆地を領し、佐久郡に於て六郎時長の伴野廿四郷、脇十八郷を譲ると云ふ。
 一には伯母大弐局の遺領を譲らる。局武衛(頼朝)に幸せられて子なし。故を以て七郎家跡を継ぎ、講名の字を賜ひて朝光と号す。建保4年丙子7月29日将軍実朝に相模川に供奉す。承久元年北条泰時の下知に依て京都に発向し、宇治川に於て戦功あり。嘉禄元年乙酉3月、朝光岩村田館に於て卒す。年28。法名松山栄公大弐局奥州由利郡を領す。是れ建保元年和田義盛滅亡の恩賞なり。
   其の余は未だ考えられず。
 このように建保元年、由利郡は大井氏の所領となったのであるから、直ちに一族をつかわして統治にあたったことが察せられる。以上の経過を見ると、和田氏の反乱によって和田氏も由利氏も亡び、あらたに和田義盛の孫にあたる大弐局に由利郡の所領が与えられたことはまことに不思議な因縁であり、一方では氏族のつながりを考慮の上でなされた配置とも考えられるほどである。
 

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