奈良時代前後の出羽の国

 
 わが郷土には縄文式時代の遺跡はあるが、奈良時代までの長い問の変遷については全く不明である。日本書記によれば、孝徳天皇の大化の頃になると、越後方面の征討がやや進んで、停足(ぬったり)の柵や、岩舟の柵が造られ、次第に出羽方面への進出のきざしがうかがわれる。ついで斉明天皇の4年(658)には、阿部比羅夫が秋田地方の蝦夷を討って津軽から粛慎にまで進み、捕虜をつれて帰った。この方面に蝦夷と称する先住民がいたのであるが、蝦夷というのは、アイヌ人か、あるいは大和民族で早くから北進していたものかどうかは、まだ明らかでない。
 その後奈良時代に入ると、東北の経営はいっそう進んだと見え、元明天皇の和銅元年(708)初めて出羽郡を建てたことが続日本記に見える。ついで和銅五年には、この郡によって出羽国が設置された。この区域は、前にできた出羽郡(今の飽海、田川の二郡)に新たに陸奥国からさいた最上、置賜の二郡(今の最上、村山、置賜の三郡)をそえたもので、大体羽前の国(山形県)であった。
 それから約20年たった聖武天皇の天平5年(733)に、出羽柵を秋田清水岡に移している。ついで天平9年(737)には、陸奥、出羽方面の連絡が不便であったので、交通路を開拓している。また孝謙天皇の天平宝字2年(758)には、陸奥国の浮浪人、坂東の兵士、役人を徴発して桃生城(宮城県本吉郡柳津町)小勝柵(秋田県雄勝郡羽後町西馬音内)を造って、武器を貯えたり、植民を行なっている。
 西馬音内というのは、鳥海町笹子から近距離であることを考えても、この時代わが郷土に影響のあったことが考えられる。ついで光仁天皇の宝亀2年(771)には、信濃、越前、越中などの百姓おのおの百戸を出羽柵に配置している。後世由利郡と信濃国との深い氏族関係が認められるのは、すでにこの時代からのことであった。
 それから11年たった光仁天皇の宝亀十一年に、初めて由理柵の名称が史上現われている。以上の記事を見ただけでも、後の時代には見られない記録の連続であることに気づくであろう。恐らくこの時代は、中央の権力が強人となり、東北経営に対し、とくに力を入れた時代であったと思われるのである。
1.由理柵について
 奈良時代の末、光仁天皇の宝亀11年(780)由理柵の名称が初めて現われたというのは、続日本紀に出ているつぎの文である。
   由理柵なるものは、賊の要害に居り、秋田の道を受く。またよろしく兵を遣はして   相防禦すべし。(原文は漢文)
 この記事を見ると、由理柵はいつできたかは分からないが、これより以前にすでにできていたことを示している。この地点は南方出羽の国府から、秋田城に至る要路にあたり、また東方雄勝城との連絡の上でも重要なところであったと推察される。
 それならば由理柵はどこかといえば、いまだにその決定を見ないのである。私の考えでは、あとで述べる由理郷の地点と、今一つは本荘市の古雪(昔は古木とも記された)が、古柵の意と解されるから、由理柵は本荘市附近にあったと考えられる。
2.助川駅について
 由理柵が史上に現われる21年前、淳仁天皇の天平宝字3年(759)に設定された宿駅として助川駅がある。この地点も明らかでないが、西馬音内にあった雄勝城と、秋田城との連絡のために置かれたことだけは想像できる。これについては、従来多くの意見があるが、小助川の姓氏と関係あるものと考えている。前に記したように、小助川の所在を確認したので、その本流である子吉川が助川であるならば、この時代の助川駅は、子吉川の流域にあると考えられ、その地点も雄勝城と由理柵の中間地帯である矢島の渓谷か、石沢の渓谷に求めなければならない。この地点を明らかにすることは、この時代の歴史を考える上で注目すべき問題である。

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