有史以前の郷土

 
 今から二、三千年前の昔、わたくしどもの郷里がどんな状態であったかを考えることは、まことに興味のあることである。
 まず地形風土にっいて考えると、鳥海山の噴火がたびたびあったにしても、地形は現在と大きな相違がなかったのではあるまいか。このような有史以前の縄文式時代の遺跡は子吉川水系附近に多く存在し、今日までその方面の専門家によって、土器の破片などが発見されている。
 それ等の時代は今から何年前ときめることはむずかしいが、子吉川水系の全域にわたって、ところどころに住居していたことが認められ、その期間は相当長い時代におよんだものと推定される。当時の生活は狩猟の生活で、石鎌や石槍をつかって、鹿・猪・兎などの野獣をたおし、河川の魚貝を取り、また山菜や果実を採集して生活していたと思われるが、これらの食物を保存するために使用したものが、今まで発掘された石斧や土器なのである。

 現在までに発見されている遺跡のおもなものを、つぎにあげよう。
 (1)提鍋遺跡(鳥海村大字上川内字西野)
 子吉川は上流で二分され、東側は笹子川、西側を鳥海川とよんでいる。遺跡はこの二つの川が子吉川に合流する手前、二つの川を東西に分けている段丘上にあって、土器が発見されたが、昭和32年興野義一氏によって紹介されている。
 (2)前杉遺跡(矢島町城内字前杉)

魚形文刻石

子吉川上流左岸にあって、鳥海山麓線の前杉トンネルの上方にあたっている。
 
 この遺跡からは、いわゆる魚形文刻石が発見されている。これに初めて注目したのは矢島の郷土史家、故佐々木熊蔵氏であった。その後昭和27年に至って、故武藤鉄城氏によって発掘調査が行なわれて、さらに注目されるようになった。その結果2基の積石と石斧、石匙、土器片が発見された。
 この遺跡から発見された魚形文刻石は長径1.5メートル、短径90センチ、最厚部は中程で45センチで、その石には魚の形が多数線刻されている。魚は12尾確認されている。前記のような魚形文刻石は大谷地、針ヶ岡の2箇所からも発見されている。

土偶(縄文時代後・晩期)

縄文時代石器

丹塗土器

 

○子吉川と鮭、鱒の関係

 矢島の魚形文刻石を考える場合、昔の子吉川を思いおこすのである。古い書物を見ると、子吉川という川名は小石川とも記され、またもっと古い時代には安倍川、助川ともよばれたと伝えている。去年の夏、大内町方面を調査した結果、同町中帳の小助川靖雄氏の系図によって、子吉川の支流である小関川を昔小助川といったという記事を発見したので、その本流である子吉川を助川といったという古伝は次第に確実性が出て来たように思われる。
 助川という川名は、鮭、鱒を大量に産することからつけられた名前であることは、地名辞書の茨城県助川の説明でも明らかである。昔とくに東北地方では、鮭や鱒の大きなものを「さけのすけ」「ますのすけ」などとよんでいたというから、助川というのは、それと関係ある川名なのである。
 このことから考えると、子吉川流域に魚形文刻石のあるのは、魚の供養か大猟を祈念する意味で建てられたものとされる。かかる関係からも助川の名称については、今後とくに注目する必要がある。

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