幕末の戦乱 八森陣屋炎上

陳屋自焼して退陣

 矢島応援の秋田藩勢は、家老の梅津小太郎を軍将とし、旧式隊長として古内佐惣治手二百五十名、同小野寺嵯峨手二百人が着陣し、梅津・古内両隊は百宅ロヘ討入り、小野寺隊は陣屋の防備に当たることとし、古内隊長は七月十六日着陣して福王寺に宿営した。この旧式隊のほとんどは、鎧・甲のいでたちに長柄の鎗持ち・旗さしものをなびかせるなどして「あたかも元亀・天正の戦場を見るが如し」と評した記事がのこされているが、元亀天正というのは戦国時代のことである。矢島戊辰戦記に、秋田新式隊荒川久太郎手百二十名・同佐藤日向手九十名の着陣がしるされているが、三崎口で奮戦していた両隊が、八月一日関・小滝の激戦で破れるまでの間に・疾風の用兵で矢島陣所に来援することが、果してでき得ることであったかどうか。
 矢島藩の百宅口先鋒は、春の戦いと同じように高柳半十郎と佐藤国助の両隊で、秋田兵がそれぞれその後援として従った。高柳隊は日向川右岸の貝沢へ、佐藤隊は左岸の升田へと向ったが、七月二十八日庄兵と遭遇し、山谷の間をぬいながらすこぶる苦戦をなめさせられた。高柳隊は女郎倉台を、佐藤隊は兜山を固守して必死防戦につとめたが、地の利にあかるく大兵を擁する庄内四番手は、兜山のうしろに回って挾撃の態勢にうつろうとしたので、危急を避げて退き猿倉に陣した。
 八森陳屋においては、木境番兵の敵襲報告をうけて大いに驚き、守将高柳安右工門は手兵を指揮して八坂道へ急いだ。秋藩小野寺隊もそれに続いて急行したが、キサ坂付近まできた所で、庄兵の先鋒報国銃兵(農兵隊の別称)、続いて一番手白井隊と出あい、直ちに激しい銃撃戦となり、雑木林の中では斬り合いが始まった。庄内勢は坂の高所にあって地の利を得、次第に押し出して町の出口水上まで詰め寄った。このキサ坂の激戦で、矢島藩にはじめての死傷者を出した。七月二十八日のことである。
 矢島砲隊は、この進撃を迎え打とうとして寿慶寺台に砲門をすえた。そして寄せくる庄兵目がげて号発したので、庄兵も一時たじろいだ。ところが白井隊の一手は、針ヶ岡から井岡台にあらわれて、激しく横撃を加えてきた。しかもその時樋上道に分かれた林茂助隊は、雑木林をぬけると下の方から銃砲の音が聞こえてきたので、一手を左右に分け、左方の一手は上の山から竜源寺へ向わせ、寺に火をかけさせたのでたちまち黒烙を上げ、火烙は門前の侍屋敷に燃え移り、騒然大混乱のちまたと化してしまった。
 林隊長は右の一手を指揮して、寿慶寺の上愛染長根の形勝に出、井岡台の白井隊と呼応して矢島勢を銃撃した。そこで矢島の砲隊を守ろうとする若侍と、長根からおりてき
た林隊との間に、肉弾相うつ大接戦となり、矢島藩にも死傷者が出、林も傷をこうむったので、一時かけつけた赤沢源弥に指揮を託したという。
 庄兵は町へ押し入り民家に火を放った。見る見る火の手は各所からあがり、火の海さながらの地獄絵図となった。陣屋を死守Lようとする藩勢も、すでに秋田勢のいち早く去ったあとなれば、も早や戦力に限界が迫っていた。
 この危機にひんしながらも、大手門前に榴弾砲を構えて有効な発射を続け、庄内兵の進撃をひるませていた総指揮松原彦一郎は、不幸一弾を前脛にうけて万事休した。松原
は藩主に請うて自焼を許され、かたわらなる若侍小助川光顕(18才)と小笠原兼三郎(16才)の両人に命じ、城廓に火をかけさせた。城は瞬時にして燃えあがり、そしてくずれ落ちてしまった。時に慶応四年七月二十八日、寛永十七年(1640)生駒高俊転封以来、229年のことである。
 陣屋に打ちかけた庄内兵の弾痕のみが、大手前の老松の幹にのこされていて、過ぎしいくさのあとかたをしのばせてくれる。
 

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