農民の生活をおびやかした飢饉

 この時代の農民を極度に苦しめたものの一つに飢饉がある。その被害は、三年ごとと称せられるほどに周期的連続的なものであり、近世農村生活の破滅を招くほどのものでもあった。当地方においてもこの飢饅が数えきれないほどに発生しているが、当時のことは、今もなお語りぐさに伝えられ、或は文献に書き残されている・中でも被害の最も多く、近世における東北の三大凶荒と称せられている宝暦、天明、天保年間の飢饉についてその概要を記します。
 

宝暦年間の大飢饉

 宝暦5(1755)6,7年の3ケ年間、東北地方一帯をおそった凶作の被害は実に大なるものがあった。当地方においてもその被害は甚だしく、特に宝暦5年は、最も惨状をきわめた。この年は、なが雨が降り続き、冷気殊の外甚だしく、ついに大きな凶作となった。
 この時の記録によれば「宝暦五乙亥歳、冷気強くして大凶作なり。矢島御領分にては御毛引26,000俵なり。新荘村にては251俵、坂ノ下村にては540俵なり。乞食村里に満ち、餓死人路の辺にたおるもの実に多し。御上にては舞杉に大いなる穴を堀り、餓死人を埋む。或は兄弟妻子別れ去り、家をあけて他所へ出る者多し。百宅、直根に別して多し。家を離れて他所へ出る者は多く餓死せりという。この冬大雪にてとろろ、わらびの根など堀ることならず、餓死人いよいよ多し。御上にては、毎日かゆをにて飢人を救う。山寺に非人小屋をかける。ありがたきことなり。家財諸道具売りに出ることおびただし、盗人大いに起こる。」とある。又別の記録には「直根、笹子、中奥の沢方面の餓死実に多く、餓死人御領分にて三千余人。」と記されてある。その惨状は推して知ることができよう。
 

天明年間の大飢饉

 天明3(1783)、4、7年と相続いて発生した天侯異変による凶作、悪疫の流行は、全国にひろがり、特に佐竹領は甚だしく、領内40万の人口の中約15万が飢えと病のため死んだといわれる程に、農民の惨状は、実にその極に達した。古記録によれば、この年(天明3年)の点呼天侯は「4月下旬より8月まで、なが雨やまず、秋の如し。凡そ一年間快晴の日十日ばかり、大悪作なり。」と記されてある。又、「この秋7月24日に出穂しはじめ、8月のはじめ晩稲の出穂少しばかり、寒くして綿入れを着る。いまだ刈らざる稲に雪たびたび降る。」ともある。したがって、米価もあがり、加えて他領の飢人が矢島領内めざして入りこんできた。藩は、極力救済の方法を講じ、特に他領に米を送り出すこと、酒造を固く禁ずる等の救済政策をとったがしかし、長い間貧窮にあえいでいた農民は、この大異変にあって「食全くなく、人々飢餓におちいり、或は居村を離れ、号泣して救助を願うもの日にますます多きを加う。」というありさまであった。
 その上悪疫が流行し「夏冷え侯故か、雨気当り侯故か、痢疫の病時行にて7月20日頃より諸方に病者多く、御家中両町(註、館町田中町)新町、七日町村にて死人40余、8月中在方に右病気にて死人多し。」と記されてある。赤痢か腸チフスかの悪疫の流行が加わっては、身分の如何を問わず、生活は実にきょうきょうとしたものがあった。特に農民の被害は最も甚だしく、彼等は食うに食なく、親子一族ともに食を求めて離村流浪する者多く、正に地獄の様相を呈したと伝えられている。
 

天保年間の大飢饉

 天保3年より同10年にかけても連続的な大凶作であった。特に4年(1833)の俗称「巳の年のけがじ」の惨状は、最も甚だしく、当時の状況は、今なお語り伝えられ、又記録にも数多く残されている。まず、天保4年のこの年の天候について古記録によれば「この年、春より水不足にて、田畑の耕起もできず。各地に雨乞いが統くも、田植の時には水不足となり、田植ができぬ地が領内3割以上にも及ぶ。しかるに明日より土用という時に、天候一変し、さながら寒中の如き寒さとなり、除草の際には綿入れを着てはたらく。土用より30日間、連続の大降雨となり、鳥海山は、雪におおわれて見えないこと30日にも及ぶ。
 7月18日にいたり、ようやく、ねずみの尾の如き出穂あり。更に9月26日には、三尺余りの降雪あり。猿倉辺にいたりては、六尺以上も積る。斯く大雪にありても稲穂のみのりがないために直立してたおれず。」とあり、又、別の記録には「8月2日、あられ降る。下直根は軒場四寸積る。岡田代の加兵衛沢には、大笠程積る。お上においては、役人をもって検査の結果一粒三匁。」と記されてある。
 農民は、稲刈りの時になってもみのりはなく、直立した稲を雪の中からかきわけて刈り取ったが、食糧とすることもできず、その後天侯の回復をまって、皆きそって野山に出て、木の実、草の根を掘り求め、食物をあさりとった。
 時の藩主は、11代親愛であった。長年の江戸在勤の任もとけて帰国し、藩主みずから藩の政治をっかさどった時であった。藩においては、全力をあげてこの難民救済にあたった。まず小役米、年貢、畑年貢を半ば通り御免、利米を一割御免、又は諸年貢にも御免等の恩恵をあたえ、又、貧困の者に対しては、利息なしに米の貸しつけを行ったり、米の値段を十文安にして貧民に食わせるなど、特に貧困の者に対しては米味噌、うどん、みがきにしんなどの食糧をほどこした。
 酒田の本間家より金子を借用して米殻買い入れの資とし、特に土田近信を越後、酒田の間につかわして米の買い求めのためにほん走させた。豊前(大分県)中津藩より米千俵、伊賀(三重県)の藤堂家より500俵をかりうけて領民に施した。又、たびたび諸事倹約のおふれを出し、又政令をもって向かう3年間は質流しをしないこと、室を封じて酒造を禁ずるなどのことを実施した。しかし、農民の生活はますます窮追にせまられ、ついには家、屋敷、田畑を捨てて、知らぬ他国へ流浪する者が続出した。しかもその途中飢餓にたおれる者の数多く、領内だけでも日に7、8人を数えたといわれている。
 山寺、水上の両所に非人小屋を設けて、自領他領をとわず難民を収容し、食をあたえ医療を施して救済にあたった。後に帰村する者には、非人1人について、そうめん2把、みがきにしん10本と塩から一升づつをめぐみあたえた。その数は凡そ140人ぐらいと記されている。かかる藩の懸命の努力にもかかわらず、その被害は実に多く「笹子、宿、法内、蔵村合わせてつぶれ家51軒、死者208人。」の記録もある。如何に大きなぎせいがあったか推察されよう。伝えに残る「かぎの縄」まで食して懸命に生き長らえたのもこの時のことであった。もとここに部落があったと話だけが残されている箕輪、金ケ沢、大倉等の廃村のあとは、当時の人達の死に絶え又は離村したあわれなあとである。
 天保5年11月17日、領内の各寺院において無縁の餓死者の供養を行なったが、この時供養した無縁仏は、竜源寺151人、高建寺40人、祥雲寺42人、泉秀寺(老方)175人、蔵立寺(蔵)198人、慈音寺(笹子)338人、正重寺(直根)128人合わせて1,075人となっている。
 最近、当時の人達が書き残こした起請文が鳥海村赤沼集落より発見された。これは飢饉も峠を越したかと思われた天保5年8月5日、生き残った村人12名の者が、村の秩序を保ち、たがいの生活を護るために血判して神前に誓い合った文書である。これによれば、稲盗人、土蔵破り、畑盗人、野菜盗人等飢饉の時にもっとも罪の重いものを定めて、もしこの犯行をおかした者に対しては、それぞれの科金とその処理の方法を定め、その「右箇条郷中一統烈座之上誓相立決議致侯上は少しも違肖有是間敷侯若盗賊いたし者は当所鎮守天照皇太神宮鳥海山大権現罰明罰可蒙侯者也仍御神文血判如件」と書き、最後に村人の名を書き連ね、その下に指を切っての血判がなされている。赤黒く残る血こんのあとの未だに歴然たるものがあり、真に悲壮きわまるものである。当時の人達が未曾有の難をいかにして生きぬき、村の秩序をたもとうとしたかを知る貴重なる史料であろう。
 

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